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だが、すぐに脳内であの忌々しい男の姿が浮かぶ。
シュウにとっては、恐怖と支配と絶望の象徴。ある時から、男がどのような顔の造作をしているのかすらまともに認識できなくなったほどに、彼が命ある限り憎悪を抱く相手だ。
その後遺症で、シュウは目の前で自分を気遣わしげに見ているたった一人の友人と、その恋人以外の他人をうっすらとしか認識出来なくなった。そうなるようになった最たる元凶。
今の自分を自らのテリトリー内で飼い殺し、望みもしていない方法で支配している人物。
それが〝忌々しい男〟である。
だが、シュウはその生活に疲れ果てていた。
いっそ殺してほしいという思案が毎日、頭の隅で囁いてくるくらいには。
(……そうだ)
――自らの心が完璧に死ぬのが先か、心臓と脳が機能を停止して死ぬのが先か。そのチキンレースに毎分参加させられているような生活だ。
いつ最後の瞬間がくるのかも分からない。心残りは潰しておいた方がいい。
それに、後天的に背負わされた精神的障害のせいで、目の前の他人という存在をぼんやりとしか認識できないはずの今の自分が、こうまではっきりとそーたの姿を認識出来ているのも不思議だ――
「シュウ、やめなさい!! カナタを殺されてもいいわけ!?」
厳しい叱責の声が飛んでくる。そこで、はっと思考が浮き上がった。
気付けば、指がスマートフォンの電源ボタンを長押ししていた。
ふっ、と画面が落ちた。光の消えた画面に、自分の顔が映った。世の中全てを厭い、倦んだ目に、隈が浮かび険のある無表情。
それを見た瞬間、シュウの頭の中で何かがズレた。
最後の晩餐。
何故か、そう頭によぎる。気付けばつるりと言葉が出ていた。
「……分かった。よろしく頼む」
その言葉に、ママと彼らを注視していた客が目を剥いた。思わず立ち上がりかけた者もいる。
対してそーたは諸手を上げて喜びを表した。
「やったぁ! じゃあ早速行こうか! ママ~、今日のところは帰るね。今日のお代はこのお兄さんの分も一緒に僕にツケといて!」
そう言い、そーたは焼酎のロックを一口飲み下しながら席を立つ。
合わせるように、シュウもスマートフォンをテーブルに置いたまま席を立った。
そこで、あっけに取られていたママが動いた。拳をカウンター裏の作業台に叩きつけ、ダンッ、と重い音が響いた。
「ちょっと待ちなさいシュウ! 知り合って数分、それもテメェのケツ狙ってるヤツの家に行くってお前、狂ってんの!?」
ママの諫めに、シュウは立ち止まった。その隙にするりとそーたが左腕に絡みつく。その感触を感じながら、カウンターに向かってゆっくりと振り向く。
「……そーたが、あのそーたが、俺なんぞにわざわざ直々に料理を振る舞うと言っているんだぞ。それを逃がす手があるか」
ママはとうとう、信じられない、というような顔になった。
彼女はシュウが何故現在の状況に置かれるようになったかを見聞きしている、数少ない人物だ。
当然、彼にコナをかけてきた人物たちの末路も、知っている。
「アンタねえ……! あのヒトが今のこと知ったら、そいつに何するか予想つかないわけないでしょうが……!!」
えっ、という声がシュウの左側から上がる。
確かにそうだ。今のことが露呈してしまえばそーたがどうなるか。
だがそれでも、踏みにじられた人生の中にぽつんと浮かんだ光は、とても眩しくシュウを誘惑する。
「紫苑」
だが、これで本当に最後だ。
「人生に希望もクソもない俺が、何の因果かそーたの料理を食えるんだぞ。それさえ叶えば、人生に悔いはもうない」
だから邪魔してくれるな。その思いをこめてオーナーママ・紫苑に吐き捨てる。
彼女はもう何も言えなくなっていた。愕然としているように見えるのは気のせいではないだろう。
(……当然だな)
今からシュウは、己の欲に従って動く。
友人である彼女やその恋人、この店と従業員に常連客。そしてそーた。これだけの存在の命運を、長らく動くこともなかった我欲が揺るがすことになるだろうことは、シュウも理解しているのだ。
不意にシュウは立ち止まる。首を絞められたように息苦しくなる。
失神にも似たブラックアウトと、キィ……という耳鳴りの中で、脅すような声がした。
――テメエは、俺のモンだ。これからずぅっとな……!
「お兄さん?」
ふと声をかけられ、シュウの意識が戻った。喘ぐように息を吸い込む。
いつの間にか立ち止まっていたらしく、そーたが半歩先にいる。
彼はなんだか複雑そうな表情をしていたが、シュウと目が合うとにっこりと笑ってきた。組んだ腕でまた軽く引っ張り、出入り口ドアの方に向かって歩き出す。
「さ、行こ行こ! 時間は有限だからね!」
「……そうだな」
シュウは無抵抗だった。引っ張られるままに歩く。
バクバクと心臓が痛む。
我欲と理性の間で、シュウの背に冷や汗が吹き出していく。
そういえば、とそーたが切り出してきた。
「お兄さんのこと、なんて呼んだらいい?」
見下ろすと、また笑顔を浮かべていた。
(……ああ、そうだ。これは夢だ)
――都合のいい夢。『そーたのcookin'ちゃんねる』ファンの自分に与えられた、たった一度の褒美。
もう既に自分の心は死んでいて、死に際の走馬灯の代わりに与えられたボーナスタイムなんだ。
そうだ、そうなんだ――
その考えが脳裏に浮かんだ瞬間、すぅ……、とシュウの思考が冷静になっていく。
手指の震えをごまかすために、そーたに先んじてドアノブを強く掴み開ける。ドアベルの鳴った音に紛れ込ませて、シュウは呟くように答えた。
「……るか――ゅう……」
バタン、とドアが閉まった。そーたは首を傾げている。
「……ごめん、よく聞こえなかったから、もう一回聞いていい?」
シュウは頷いた。
「……シュウと呼べ。ここの連中からはそう呼ばれている」
「オッケー! じゃあシュウくん、って呼ぼうかな」
一見、邪気はなさそうな人当たりのいい笑み。それにつられたのか、シュウの口角もほんの少しだけ上がった。
ドアベルの音に紛れこませて口にした本名。もう二度と他人に対して教えることがないと思っていた自分の名前。
まさかもう一度口にするときが来るとは、思ってもいなかった。
ボーナスタイムをくれたのは、どうやらかなりの慈悲を持っている神様らしい。神などいるわけがないけれど。
内心でシュウは、自分を過酷な運命に置いた神に唾棄しながら、そーたがアプリで手配していたタクシーに乗り込んだ。
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