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「えっ、修く、」
「お休み」
さっさと上掛けを掛け、目をつむる。
いくら長クッションが背後にあるとはいえ、奏太が本当に手を出してこないとは限らない。
そのとき、修一は抵抗するという選択肢を取れないことを自覚していた。
相手が奏太だからか、それとも色事に抵抗するという気力すら殺されているせいなのか、どちらが要因かは分からない。
ただ、奏太にこれ以上の傷を増やすのは望むところではない。
だから今日は、頼むからこれ以上触れてこないでくれ、と修一は願う。
数秒か、それとも数分か。少しの間のあと、奏太は着替えを始めたらしい。タンスの開け閉めと、衣擦れの音が聞こえる。
それから、ベッドの開いている方に乗り上げてきた。上掛けが持ち上がる気配と、もう半分のスプリングが沈み込む感触。
そのまま枕に沈むかと思っていたら、さらり、と一回頭を撫でられた。
「……おやすみ、修くん」
子守歌のような声音で告げられる。それから奏太はもそりもそりと寝る姿勢に入った。
「……」
奏太が姿勢を整えるのをクッション越しに感じながら、修一はわなわなと震える。
(……眠れん……!!)
まさか、頭を一撫でされた程度でこんなに心臓がせわしなくなるとは思わなかったのだ。
奏太の寝息を耳に、修一はぶり返す熱をやり過ごすのに必死になった。
**********
「……まさか、いつの間にか寝ているとはな……」
ぼんやりと呟きながら、横を見る。
ベッドの中央には、昨晩奏太が置いた通りに長クッションが鎮座していた。どちらかが越境したような様子もない。
もう一度、くわぁぁ、とあくびをする。
元々修一は、見た目に反して豪快な一面もあった。自分しかいない場所で、わざわざあくびのときに口元を隠すようなことなどしない。
寝間着がなかったから仕方なかったとはいえ、よれたワイシャツとスラックス。
それらを整え、ベルトを付け直す。
これも、1ヶ月前と同じだな、と少しおかしくなった。
(……あのときは、人生に絶望しかなかったのにな。今は、針の先ほどの希望は見え隠れしている)
そう思えるようになったのはどうしてだろうか。
まだまだ懸念事項はごろごろと転がっているというのに。
ジャケットをハンガーから外して持つ。寝室のドアノブに手をかけた。
扉を開ける。ふわりと漂う、あの日と同じ出汁の香り。
途端に、修一の胃は空腹を大声で訴えた。
「うぐ、っ……」
ぐううう、と鳴った胃を抑えると、キッチンの方から含むような笑いが聞こえてくる。
「くふふ……、おはよう修くん……」
何やら派手な緑色のTシャツを着ている奏太が、片手鍋の乗るコンロの前にいた。
修一は微かに苦笑する。
「……現金な胃だな。持ち主が言うのもなんだが」
「まあまあ。それだけ体が元気になろうとしてる証拠じゃない」
ピー、という電子音は、奏太がIHコンロの火を止めた音だ。
片手鍋に蓋をして、奏太は一旦アイランドキッチンを離れる。
キッチンの側にある引き戸を開ける。そこは洗面所だった。
「顔ここで洗ってー。タオルもトイレも自由に使っていいからね」
それだけ言うと、奏太は再びキッチンに引っ込んだ。
かと思うと、ひょっこりと顔を覗かせる。
「……今度は逃げないでね?」
ふは、と修一は思わず吹き出してしまった。
どうやら、勝手に逃げ出したことを奏太はよほど気にしているらしい。
「理由がない」
そう返して、苦笑した。
奏太が用意していた朝食は、あの日食べることが出来なかったメニューだった。
白米、味噌汁、塩鮭の焼き物、漬物、ほうれん草のごま和え。食後に番茶。
あのときは、また奏太の手料理にありつけるとは微塵も思っていなかった。
それは今は、こうして 食卓を共にする幸福を享受している。
白米はしっとりふっくら。味噌汁はお試しのいりこ出汁がよく効き、豆腐とわかめの旨味が華を添えている。鮭は塩味と旨味に焼き目の香ばしさが加わり最高だ。ごま和えもほうれん草はシャキッと感を保ちつつ、ごまの芳醇な香りとほんのりとした甘味がいい。
これらが、食べてしまうと胃の中に消えてしまうなんて本当に悲しい。だから修一は、今日もちまちまと、ゆっくり時間をかけて頬張る。
昨晩、奏太に触れられたときとはまた違う快楽が、寝起きの体を覚醒させていく。
本当に幸せな心地だった。
あの人物がやってくるまでは。
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