menu.6 出汁の香りは心ほぐしの香り(3)

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おおよそ聞きたいことは終わったのか、神谷が「ありがとうございます」と締めくくる。どうやら、修一への事情聴取はこれで終わりのようだった。 奏太に関しては、警察側との連携もあったため互いに当日のスケジュールは把握済みだったが、形式的なものとしての事情聴取が行われた。とは言っても警察側としてはとうに把握済みのことだったので、さらりと流されるように終わる。 「……さて」 おもむろに井上がソファーから立ち上がる。 途端に修一の眉間に濃い皺がくっきりと彫り込まれた。 敵意を通り越した冷たいものを漂わせ始めた修一に、井上は表向きは表情を動かさずスーツの内ポケットをまさぐっていた。 奏太と二人で首を傾げていると、コトリと小さく銀色の長方形をテーブルに置いた。 両手を組むと、井上は刑事としての厳しい顔を作る。 「これはまだスイッチを入れてないレコーダーだ。青木の取り調べのときに聞かせることも出来る」 奏太が息を呑んだのが分かった。 「何か言いたいことがあるなら、だが」 神谷からも視線が向かってくるのが分かる。 修一は軽いため息をついた。 きっと、井上は青木に悪意のある意趣返しをしたいのだろう。 今度は疲労感の滲んだため息になる。両肘をついてそれを杖に項垂れた。 「……何もない」 「本当にか?」 少々厳しさの滲む声が帰ってきた。 井上の言いたいことは分かる。修一は、恨み節の一つや二つ、何なら百や千でもぶつけていい立場だ。 だが、疲れる。 せっかく奏太の料理で再び精神的に持ち直しかかってきたところなのだ。余計なことを思い出したくない。 青木への恨み言を言うということは、青木からされたことも思い出すということだ。 (……もう、何をされたのかすら思い出したくもない) そう思うだけで、胃の中がひっくり返って朝食ごと胃液が戻ってきそうになるというのに。 修一はまた顔を上げた。がり……と力任せに、ワイシャツ越しに腕に爪を立てる。 そうやって自傷行為の真似事をしないと、本当に嘔吐してしまいそうだった。 吐き気と冷や汗をこらえながら、修一は言葉を絞り出した。 「……きっと、おそらく、一生青木とその一味への憎悪と殺意は消えないと思う。だが、それを口にするのは、嫌だ。もう、されたことを思い出したくすらない。吐き気がする。……死にたくなるぐらいに」 そのとき、ニヤニヤとした笑顔を浮かべた青木の姿がフラッシュバックした。 修一は反射的に立ち上がり、トイレと洗面台、どちらに行くか一瞬悩んで、より近い洗面台に駆け込んだ。 水栓レバーを全開にし、洗面器部分に胃液と微かなサーモン色のとろみを吐き出す。 「おえぇっ、ごぼっ、げほっおぼっ……!」 「しゅ、修くん! 修一くん、しっかりして……!」 慌てて修一の背中をさすりに来た奏太。 修一は胃液が出なくなっても、嘔吐しつづけた。 吐かなければ、吐かなければ。吐き出して、胃腸の中を総て空っぽにしなければ。 さんざん飲まされた青木の精液が、今も胃壁にべっとりと貼りついているのではないかという恐怖が、修一の体を苛む。 とうとう喉が切れ、血が混じりだした。 「修一くん……!!」 体を支えてくれている奏太の声に、泣きが混じってくる。 ぜえ、ぜえ、と修一は、吐瀉物と唾液に濡れた口で呼吸を繰り返す。全く酸素が入ってきている気がしない。 「……坊」 とす、と修一の頭に井上の手が乗った。 「……すまねえなぁ。ツラいことを訊いちまった。おじちゃん失格だ」 昔、まだ修一が幼い子供だった頃に話していたような優しい声音の井上の言葉。 ずるずると修一はその場にへたり込んだ。奏太が何やら乱雑に動いている気配がする。 「……青木には、坊はテメエのことは話を聞くだけで吐いてぶっ倒れるほどのトラウマになってる、とだけ伝えとくよ」 それだけ言い残して、井上は手を話した。 そのときには、奏太が洗面台の湯レバーで作った温タオルで修一の顔を拭っていた。 それにかこつけて、修一は返事をしなかった。 今自分がなんと返事をしたところで、井上はこのことを青木に話し、心的ダメージを入れることを謀るだろう。 なら、返事をしようがしまいが変わらない。 佐々木さん、と奏太は神谷に呼ばれた。リビングで何ごとか話をしているのが聞こえてくる。 おもむろに、修一は頭を軽く後ろに反らした 。それから勢いよく、洗面台に額を打ち付ける。 ガッ、という大きな音が立った。 「………………」 胃液で焼けた喉から、息を吐き出す。 (……情けないところを、奏太に見せた……) 情けなくて涙が出る。本当に、自分という存在は生きていていいのか分からなくなっていた。 そのままの姿勢で固まって、どれだけの時間が経ったのか。 不意に奏太が、背後から包み込むように抱きしめてきた。 「……二人とも、帰ったよ」 なんと返事をしたらいいのか分からなかった。 「お腹すいたね。昼まだだったもんね」 奏太の手が労るように修一の胃のあたりを優しく撫でる。 手当てとは、よく言ったものだ。 撫でられるたびに、少しずつ、胃の嘔吐感や不快感、自己嫌悪やトラウマが溶解していくような気がする。 「昼は胃に優しいものにしよっか。鳥雑炊、ミルク粥、くたくたのうどん、何作ろっかなぁ」 腹を撫でてくる手と同じくらい優しい声音で並べる奏太。 ふと、幼い頃の記憶が蘇った。 風邪をひいたときに母が作ってくれた、ささみ肉とにんじんを細かく刻み、卵でとじた粥。 「……鶏のささみと、小さく切ったにんじんと、卵の入った粥が食いたい……」 ずずっ、と鼻をすすりながら、か細く答える。 りょーかい、と奏太は快く請け負ってくれた。
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