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性格に見合わない、行書に近い流麗なボールペン字で何枚にも渡って綴られた青木の手紙を、修一は最後まで読み、そして最後の一文に目を開く。
そこに書かれていたのは、間違いなく〝ルカ〟と青木のつけた愛称ではなく、その由来となった修一自身の名字であったからだ。
それに籠められた意味を、修一は嫌でも推測できてしまった。
青木剛は、本当に自分を解放する気でいるのだと。
俯き、静かに便せんを畳む。とん、とソファーにもたれかかり、息をはいた。
(……ようやく、ようやく解放されるのか……)
あの鬱屈としたヤクザの愛人生活から、本当にようやく。
本当に、本当に嬉しい。本当に嬉しいはずなのだが、いざその時が来るとなんと言っていいのか分からない。
28年の修一の人生のうち、ゆうに8年も青木に支配されていたことになるのだ。決して短くはない。
その時、奏太が不意に修一の頭を自身の懐に抱きかかえた。宥めるように頭を撫でながら囁く。
「……大丈夫。大丈夫だから。俺も紫苑ママもダーリンさんもいるし、神谷刑事たちだって、修一くんの同期や後輩だったことやめるワケじゃないし、井上刑事も修一くんが都合良く使いたいときに使えばいいんだよ」
神谷の隠しきれない苦笑が漏れ聞こえた。
だが奏太は気にせず言葉を続ける。
「きっとご両親にだって、修一くんが会いたいときに会いに行けるんだよ。手紙に書いてあったでしょ? 俺のことも一応見逃してくれるし、ご両親の監視もやめる、って」
ぐう、と修一は腹の底からせり上がってくる衝動をこらえる。
だが、次の言葉でそれも決壊する。
「だから、もう大丈夫だよ」
奏太の頭を撫でる手つきと声の優しさに、とうとう修一は涙を堪えきれなかった。彼の懐に顔を隠しながら、嗚咽を堪えて泣く。
その姿に神谷は感極まり、後輩は目頭を押さえながら店を静かに出て行った。
いつの間にかカウンターから出ていた紫苑と、キッチンから出てきて一緒に話を聞いていたパートナーも、感無量という表情だ。
青木老人は息をついた。穏やかな、何かに呆れているような、そんな笑みを浮かべている。
その笑みのまま、奏太に言った。
「……契約書に関しては、後で弁護士に持ってこさせる。安心しな、文面にも俺がガッツリ口を出してやるし、馬鹿孫には何が何でもサインさせる」
さて、と青木老人は立ち上がった。
「お前ら、俺の用事は終わったし帰るぞ。マスター、会計を頼まァ」
唐突に視線を向けられた紫苑が、目尻に溜まっていた涙を慌てて拭い、伝票の元に小走りに向かう。
戻ってきた紫苑の伝票を見、青木老人は無造作に一万円札を10枚、上に乗せた。
それを見て、紫苑はぎょっとする。
「えっ!? ご老公、多すぎですわよ!? 三名様で一杯ずつしか頼んでいないのに……!」
そう困惑すると、まだ死んだ目をしている老愛人の腰を抱いて、青木老人は笑った。
「なァに、迷惑料にゃ桁がちぃとばかり少ねえが、俺からのとりあえずの気持ちだ。後々、春川くんの分も、馬鹿孫の持ち金から正式な迷惑料を支払わせるようにするがな。まあ、ジジイからのチップ代わりに受け取っといてくんなァ」
「そんな、困りますわ……!」
「いいからいいから、とっとけ。な」
そう豪快に笑う青木老人。何かを持った音、それから立ち上がるような気配。
愛人と共に青木老人の気配が遠ざかっていく。ドアベルが鳴った頃、奏太の祖父も立ち上がった。
「それじゃあ、じいちゃんも帰るからね。体に気をつけるんだよ。食べ過ぎ食材の買いすぎジジババ詐欺には注意してね。それから、たまには実家の方に顔を見せるんだよ。恋人さんが落ち着いたら、二人で遊びに来なさいね」
言い終わると、ぽん、と修一の肩に手を乗せてきた。
「春川くん、っていったかな。うちの孫をどうかよろしくお願いします」
穏やかに、のほほんとした口調でそう言った祖父。
彼の言葉の内容に、修一は奏太の腕の中で瞬きをする。
(……奏太の家族は、少なくとも祖父は、俺のことを許容してくれる……のか……?)
恐る恐る視線を向ける。
祖父は、うっすらと奏太の面影が見え隠れする顔で、穏やかに笑ってみせた。
「あの二人のせいで、男性同士の色恋沙汰に免疫はあるから大丈夫だよ。それに、奏太が自分から選んだ相手なら、じいちゃんがとやかく言うことじゃないしね」
ぽんぽん、と祖父は二回、今度は力強く修一の肩を叩く。
まるで激励のようだった。
「じゃ、もう本当に帰るよ。置いてかれちゃう」
祖父はそう告げると、年齢の割には軽い足取りで店を後にした。
ドアの閉まる音とドアベルの音が止むと、来ていた常連客達が会話を再開させる。どこか浮ついたような感じだ。
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