忘却の渦

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・ ・ ・ 11/20 今日も日課の散歩をしてきた。 日が昇るのを見届け、白い息を吐き出しながら、いつもの道を歩いた。見慣れた小鳥が今日は電信柱の上に止まり、軽くさえずってきた。やっぱり朝は良いな。ビルの多いここでも、空気が澄んでいる気がする。 彼女は今日もいた。いつもと同じところに。彼女の姿を見て挨拶の前に「あっ」と思い出した。先日頂いたハンカチを返そうと思っていたのに、机の上に置き忘れてしまった。 彼女は「いつでも大丈夫ですよ。」と優しい声で言ってくれたけれど、 私は「何度もすみません。最近物忘れが激しくて。」と焦った声で言った。 簡単なミスを繰り返してしまう自分に少し腹が立った。昨日も忘れたから、机の上に置いておいたのに。 彼女は続けて「ここで毎日会うという私との約束を覚えてくださるだけで、十分ですよ。」と言う。 そんなわけにはいかない。明日こそハンカチを返そう。 11/21 雨の日でも散歩は欠かさない。晴れた朝もいいが、しとしとと屋根から水が滴り、私が歩いた跡が少し残っている気がして。雨独特の匂いも鼻が湿るようで好きだ。 彼女はこんな雨の日でもいる。傘をさしてかがんで花を見ていた。濡れ過ぎないように傘の中に入れようとしていた。 「おはようございます。」私はいつも通り朝を告げる。 彼女は鈴を鳴らすような声で「おはようございます。」と答えた。 私たちの間にそう特別な言葉なんて不要だ。もう何年もこの約束を続けてきたから。 「雨の中でもこの花はきれいですね」私はそう語りかけた。 「そうですね。」彼女はそう返した。 家に帰ると、机の上に桃色のハンカチが置いてあった。「誰のものだろうか」そう思って広げた時に、先程まで会っていた彼女の香りが漂う。 「ああっまた渡し忘れてしまった。」 気づくのが遅い。明日絶対に彼女に渡すことを考えて、明日着るジャンパーのポケットに入れた。 私は何をしているのだろうか。 11/22 カーテンから漏れるオレンジ色の日の光で目が覚めた。雀がベランダに留まり会話をしている声が聞こえる。布団を片し、私は届いている新聞を読む。 いい朝だ。 窓を開けると少し冷えた風が私を捉える。その涼しさで起きてしまったのか。居間に現れた妻が「おはようございます。」と声をかけた。「おはよう。」私はそう返した。 妻は怪訝な顔をしていた。 その表情が気になって、私は「どうかしたのか?」と尋ねた。私の挨拶がおかしかったのか、と思ったがそれは違った。その問いに妻は「今日は散歩はよろしいのですか?」と答えた。 「ああっ!」早朝に似つかわしくない大声をあげてしまった。妻はその声の大きさに驚いていた。「忘れていた、行かなくては。」私はいつもの服に着替え慌てて家を飛び出した。 どうして忘れていたのか。日課だったではないか。散歩だけがぽっかり消えたように朝のルーティンを過ごしていた。 慌てていつもの場所へ行くと、彼女はまだそこにいた。 「もう来てくださらないのではないかと思ってしまいました。」彼女は不安そうな顔をしていた。「すみません、驚いたことに日課の散歩を失念していました。物忘れが激しいにも程があるのに、どうして。」後半から自分に問うように私はそう答えた。 彼女は「日記をつけてるんでしょう?見返せば忘れていることもきっと思い出せますよ」と助言してくれた。「ありがとう。明日はもう忘れません。忘れたくもありません。」そう答えながら私は私を信じられなかった。 11/23 夢を見た。 息子が小学生の時に連れて行った海以来行ってすらいないのに、私は海で泳いでいた。砂浜も陸も船も周りに見えず、顔を水につけないで水をかきわけていた。 ふと、すぐそこに渦が現れた。何が原因でできたのかもわからない。その渦は徐々に私に近づくほど大きくなり、やがて私を飲み込んだ。私はその流れに呑まれて片手を突き出し口の中に入ってくる水を吐き出しながら助けを呼ぶ。 「助けてくれ!水が、渦が!」そこで目が覚めた。 まるで本当に海の中にいたかのように私の背中は汗で濡れていた。 横で寝ていたはずの妻が「大丈夫ですか?ひどくうなされていましたよ。」と心配そうにうかがっている。「ありがとう。渦に飲まれて溺れる夢を見たんだ。」そう返すと、彼女は「そうですか。」と言った。 もう一度眠りに入る気にもなれなかったため、夢を忘れる前にこの日記を書いている。まだ朝が早すぎる。日が昇って少ししか経っていない。外は明るい。今日は何をしようか。何かを忘れているような気もする。最近そんな思いばかりだ。とりあえず今日は一日読みかけの本を読もうと思う。 11/24 今日は久しぶりに息子夫婦と会った。豪華な昼食を妻が腕を振るって作り、息子は「久しぶりの懐かしい味だ」と言ってばくばく食べていた。嫁さんはお腹がずいぶんと大きくなっていた。 それを見て私は「それで、お腹はどうなんだ?」と言った。その発言に対して妻が「あなた、さっきその話してましたよね?予定日は来月になるそうですよ。」と言った。 「そうか。さっき喋ったか。ちょっと抜けていた。来月かそうか。」と独りごちた。それにしてももう来月か。楽しみだ。孫の顔を生きているうちに見るのが夢だった。私の父も息子をたいそう可愛がってくれた記憶がある。亡くなる寸前まで息子に何を買ってやろうかなんて話をしていたことを思い出した。 息子らは「元気そうでよかった。父さんもちょっと物忘れが増えた気もするけど、母さんもいるし大丈夫だろ。また来るよ」と言って帰っていった。 ・ ・ ・ 11/28 ここ数日、昔の仕事仲間の葬式と悲しみで日記が書けなかった。あいつとは最後まで残った唯一の同期で、違う部署に行っても仲はよかった。仕事の愚痴を語り合ってわかりあって、時には飲み屋でバカ騒ぎしたりオールしたりした夜もあった。 ああ、思い出してまた、涙の痕がついてしまった。私にも死は近いということが身近に感じられる瞬間でもあった。 私の永遠の友人の冥福をここに祈る。 11/29 友人が眠ってから、毎日朝太陽に祈ることが日課になった。祈っている間、あいつの顔や声、姿をできる限り思い出すようにした。忘れないことで永遠に私の中で生き続けている、そう思えるからだった。 今日、病院に行ってきた。最近の物忘れの激しさ、ずっと何かを忘れているというような思いに耐えきれなかったのが大きい。 妻も「それがいいと思います。この前もあなた、息子のこと最初わかっていなかったでしょう?」と言い、そのこと自体を忘れていたのもショックだった。 様々な検査を行い、医者にはどうやら認知症の初期症状であると言われた。病院でできることはあまりなく、毎日の薬と家での療養が大切であるが、回復に向かうことはほとんどないそうだ。記憶の欠落症状を遅らせることはできるようで、それに適した薬を出してもらった。 私も認知症にかかるのか、遺伝というのはどうしようもないらしい。それがどうしても悔しく、つらかった。周囲の思いを知っているからこそ、申し訳なくてつらい。 ・ ・ ・ 12/1 昨日日記を書くことを忘れていた。妻は昨日から友人と旅行に行っており、家には私一人だ。大学生の、一人暮らしの生活に戻ったようでなんだか寂しい。 妻は「あなたがこんなときに私が旅行だなんて心配です。」と言って旅行を断ろうとしていたが、私は「いや、行ってきた方がいい。私のことなど気にせず気楽に楽しんできなさい。」と言った。 日頃から物の場所さえも忘れてしまう私に対して気を遣っているのは疲れることだと知っているからこそ、そう言った。妻は物のある場所にふせんを貼ってから、旅行へ行った。 久々に料理をしたし、久々に洗濯や掃除をした。 思考も思い出すのも放棄して淡々と家事をするのは意外に楽しかった。いつもはひたすらに読書をするだけだし、暇をしていたからちょうどいい。 ・ ・ ・ 12/4 入院することになった。 一昨日、妻が旅行から帰ってきた日、私は掃除が楽しすぎて2階までの階段をぞうきんがけをしていた。 ちょうどそのとき、玄関のドアが開く音がして、妻が「ただ今帰りました」というものだから、慌てて迎えに行こうとして足を滑らせ階段を転げ落ちてしまった。 幸い、頭は打たず、足の骨を折るだけで済んだとはいえ、全治2か月だそうだ。2,3週間ほどは入院して、そこからはリハビリもかねて自宅療養が適切だと聞いた。 ということで、この日記帳を妻に持ってきてもらった。私の下着やジャンパーなど身の回りのものは明日持ってきてもらうことにした。せっかく旅行を楽しんできてもらったのに、また迷惑をかけてしまって申し訳ないと思う。同時に、情けないと感じた。土産話はじっくり病室で聞くことにしようと思う。 追記: 日記を閉じ、テレビを見ていると、見知らぬ男が血相を変えて病室に飛び込んできた。 「父さん!病院に運ばれたって聞いて、飛んできた!大丈夫か、何があったんだ?」と彼はまくし立てた。私のことを父さんと呼ぶということは、この男は私の息子なのだろう。 また、私が忘れているのだ。そう考えられたので、少し間をおいて私は「大丈夫だ。足の骨を折っただけだ。」と答えたが、不安そうな表情は消えなかった。 ひとしきり顛末を話した後、症状の具合を医者に聞くと言って彼は早々に部屋を後にしたが、その際「いつもの父さんじゃないな」とつぶやいていたのが聞こえた。 私は彼に普段どんな話し方をしていたんだろうか。 12/5 妻が訪ねてきた。 話を聞くと、どうやら私は昨日身の回りのものを持ってきてほしいとお願いしていたようだ。確かに日記を見ると、そう書いてある。もう一つ、妻は不思議なことを言っていた。 「あなたのジャンパー、ずっと洗濯していなかったので、クリーニングに出そうと思って、ポケットを少し漁ったんですよ。そしたら、この桃色のハンカチが出てきて。 私はまさかあなたのものではないし、誰のものかわからなかったので、一応ここに持ってきたんですが。」というようなことを告げてポケットから桃色のハンカチを取り出した。 何かなつかしさがあるような気もするが、私が持っているものでも見覚えもないので、「捨てて大丈夫だろう」と答えた。「本当にいいんですか?」と聞かれたが、私は本当に知らないのだ。「何度も聞くな。いいんだ。」と返した。妻は少し驚いたような顔をして、「そうですか」と答えた。 息子もそうだったが、最近家族にどういう態度で喋っていたかを思い出せなくなった。毎度毎度こう怪訝なような驚いたような表情をされるたびに、私が何かを間違えたのだと知ることになる。 彼らが私にそれを言わないのはきっと気を遣っているからだろうが、それが逆に私を不安にさせる。 12/6 最近よく昔のことを思い出す。そういえばどんちゃん騒ぎをしたり夜つぶれるまで飲んで愚痴を語り合ったりしたあの仕事仲間、いや戦友ともいえるな、あいつはどうしているのか。 まだ元気にやっているのか、はたまたどこかで酔いつぶれて寝ているのか。会いたいものだ。そんな思い出にふけっていると、知らない老婆が訪ねてきた。 彼女は優しそうな顔で、「あなた、具合はどうですか?」と聞いてきた。その優しさを裏切るような発言をしてしまいそうで申し訳なかったが、わからないものはわからないので、思い切って「君は、・・・誰だ?」と尋ねた。 その表情がみるみる曇っていくのがわかって、慌てて「いや、きっと忘れてるんだ。喉の所まで出かかっているんだ。頼む、誰かわかったら君のことをたくさん思い出せるから。」と付け足した。 彼女は「あなたの、妻ですよ。」とその優しそうな声を震わせて言った。「妻。ああ、本当だ、面影がある。それにしても老けたな、いや、私もか。はは」と冗談交じりに言ったが、効果はないどころか悪影響だったようだ。 彼女は私の手を強く握って「あなたはきっともうすぐ私のことも息子のこともみんなのことも全部忘れてしまいますが、私も、息子も、みんなもあなたのことは覚えていますから。」と、そう言った。語気も強く、私は「そうか。」としか返せなかった。 12/7 目覚めて、日記を見返して隣にいた老婆が妻だということがわかった。彼女はその目で私を優しく見守っていた。これからきっと、妻のことも彼女と過ごした思い出もこれまでの日常も何もかも思い出せなくなってしまうのか。今はまだ妻と言われれば、その思い出が蘇るが、将来、周りの人が誰なのかわからなくなってしまうのか。とても怖くて悲しい。 隣で私の手を優しく握る妻に、「なあ。私との日々は幸せだったか?私は君を幸せにできたか?」と尋ねると、妻は透き通る涙をこぼして「当たり前です。私は本当にあなたといられて幸せです。今も、そしてあなたが私を忘れてからも、あなたが亡くなってしまっても、変わりません。あなたがもう思い出せない思い出も全部私が覚えています。だから、安心してください。」と言った。 安心してください、の言葉に胸が震えた。気づけばシーツに水滴が落ち、妻の涙と重なった。 「これから私は君にひどい言葉もつらい言葉もきっと言うだろう。でも、どうか、君のことを忘れていることすら忘れてしまっている私を、どうか許してくれ。」 そんな私を慰めるように妻は「もちろんです。私が生涯そばにいたのはまぎれもないあなたなんですから。」と掬った。 不安が搔き消え心が満ちた気がした。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 1/4 医者に言われて日記を書くことにした。 日記を書けば忘れても見返して思い出せるとのことだ。日記なんか書かずとも私は何も忘れてはいない。なぜ入院しているのかもよくわからない。 そう言ったら医者はあともう少しの辛抱ですから、とそう返した。母ちゃんが言っていた通り、医者は信用できないと、そう思った。 1/5 きれいな女性が赤ん坊を抱いて病室にやってきた。「お義父さん、あなたの孫ですよ。」と彼女はそう言ったが、孫どころか私には息子はいないはずだ。彼女はいるけれど、結婚の話はまだしてすらいないし、私もまだ遊びたいのだ。こんなところに閉じ込められている時間はないのに。 1/6 車いすに座らされ、よくわからない木の下でよくわからない人と写真を撮った。私以外は皆和気藹々と喋っていて老婆も男も女も赤ん坊ですら笑みを浮かべていた。何が楽しいのかわからない。 撮った写真を見ると、車いすに座っている私も笑っていた。意味が分からない。というか、私はこんなに老けてなどいないぞ。 1/7 この日記を書く意味がわからない。私は子どものころから3日坊主を地でしていた気がする。母ちゃんが無理矢理やらせたそろばんも野球も何もかも途中で飽きた。大学も最近そこまで楽しくない。また新しい楽しみを見つけなくては。 1/8 病室にきれいなお嬢さんが尋ねてきた。20代かそこらの人だ。はっきり言うと私のタイプだ。今すぐ口説きたい。 そう思っていると、彼女は「約束を覚えていますか?」と言った。こんなかわいい人と約束したことはない。なんなら今から夕食の約束をしたいぐらいだ。 そんな表情を読んだのか、彼女は「そう、なんですね。」と言った。続けて「ということは、私が貸したハンカチも持っていらっしゃらないのですね。」と言う。 せっかくかわいいのに勿体ない。この女は頭がおかしいのか、私はこの女のことを知らないし、会ったこともないのだ。 「あなたに最後に会えてよかったです。今までありがとうございました。」去り際にそう言われた。私は彼女に何をしたのか、わからない。いや、私が覚えていないのではない。こんなかわいい女を忘れるわけがない。人違いだろう。あるいはあの女の妄想か。後者だとしたらとんだ迷惑だ。 1/9 知らない女が赤ん坊を連れて遊びに来る。この人は知らないのだろうか。私は赤ん坊が、子どもが、嫌いなのだ。得体のしれないようで、何かあれば泣く。非常に生意気だ。二度と連れてこないでほしい。そう思った。 /
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