イングリッドという少女

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イングリッドという少女

「ここが私の家です」  【アンカーネッジ】に着いたスミスが案内されたのは、イングリッドの自宅であった。  一階建てで三角屋根の小さな家。一人暮らしであるらしいが、中には一通りの家具が揃っていた。 「今からご飯作るから、適当に座っててください」  そう言ってイングリッドは料理をするための準備を始めるが、あまりにも無防備な行為に少しだけ心配する気持ちが生まれる。 「助けてもらったし、確かに泊まる場所はないって言ったが…。流石に警戒し無さすぎじゃねぇか?」  ここに来るまでに話してわかった事だが、彼女は危なっかしい人間であるように感じた。  ダンジョンに一人で入るのもそうだが、人は助け合うのが当たり前と思っている節がある。あまりにも無防備すぎて、先ほど出会ったばかりの俺が、普段どうやって暮らしているのか心配になるくらいだ。  そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、彼女は手馴れた手つきで調理をしながら答える。 「そうは言ってもさっきまで倒れてたんですから、そんな人間が野宿なんてしたら、今度こそ本当に助からないかもしれませんよ?」  本来であれば街の宿に泊まるつもりであったが、諸事情で手持ちが調達出来ていないため野宿をしようとしていた所であった。しかし、それを話したところ咎められたので、今こうして彼女の自宅にいるわけだ。  善意を受けている身であるだけにイマイチ拒否をし辛い。  鼻歌を歌いながら材料を切る彼女を横目に、改めて室内を見回した。  ベッドにクローゼットにテーブルや暖炉。どこの家にもあるような家具の中に、異質を放つ黒く分厚い本を見つけた。  見覚えがある本だ。  イングリッドを横目に見たあと、おもむろに手を伸ばして表紙を確認する。黒い装丁に金の刺繍が施された表紙には、黒の聖書と書かれていた。 (黒の教団の聖書、か…)  妙に献身的だと思ってはいたが、これで合点が言った。  恐らく彼女の善意ある行動は、全て【黒の教団】の教えから来ているものなのだろう。  【アンカーネッジ】には【黒の教団】の支部があるため、彼女が信者であっても不思議な話ではない。  教団の教えに興味はないが、意味もなく本を開いて頁を捲る。  嘗て、神が自らを犠牲に世界を守ったという神話の出来事が書かれている。神が居なくなった後の世界の成り立ち。ダンジョンが地上を覆い尽くし、世界は迷宮紀という新たな時代を迎える…。 (デタラメだな…)  相変わらず胃もたれするような架空の出来事ばかりが書かれている。まだ子供に聞かせるおとぎ話の方が現実味があると言うものだ。  本を閉じて元の場所に戻した後、いつの間にか鼻歌を止めていたイングリッドは元気な声を響かせた。 「料理が出来ましたよ〜」  木のボウルに入れられ運ばれて来たのはスープであった。そこらの店で食べるくらいには具が入っている。 「口に合えばいいんですけど…」  彼女は心配そうな目でこちらを見つめる。  流石にここまで世話になるつもりはなかったため、何処と無く申し訳のない気持ちになった。 「今更なんだが、本当に貰っていいのか?」 「全然気にしないでください。丁度この前お野菜をいっぱい頂いちゃって、一人で食べきれなさそうだったから困ってたんですよ。全然気になさらずに!」 『貧しい人間に分け与えよ』とでも聖書に書かれているのだろうか。  自然と弄れた考えを持ってしまうため、頭を切り替えてから木のスプーンを手に取る。  スープは透き通っているものの、どこか黄みがかっており肉の油が浮いている。鼻腔をスパイスの香りが刺激し、口の中に唾液が溢れ、思わず唾を飲み込む。  スプーンで一口サイズに切られた野菜を掬い、口の中に入れる。  スープに溶けた野菜と肉の旨み。そしてスープがしっかりと染み込んだ具材…。  しばらくぶりに料理と呼べる物を食べているのも相まって、手が止まらない美味さであった。 「気に入ってくれたみたいで良かったです」  優しく微笑む彼女を尻目に、早くもボウルの中が空となる。 「まだまだありますけど、どうします?」  彼女は期待の眼差しを向けてくる。  断る理由はないが、何より視線が眩しい。 「じゃあ、もう一杯」  そう言うと彼女は、嬉しそうにボウルを受け取りスープをよそう。渡されたボウルの中には先程よりも多く具が入っていた。  彼女は自分の分も盛り付けると、正面の席に座り、胸の前で両手を合わせ『祈りの言葉』を口にした。 「黒の母よ。あなたの慈しみに感謝し、この食事をいただきます。我が肉体の糧となる全ての命に祝福をお与えください…」  【黒の教団】の信者が食事をする際に行う儀式だ。  全ての生命は空から産み落とされるという考えの元、それを糧とする我々人間が神に感謝を示すための言葉…らしい。  祈りを終えた彼女はスプーンで具材をすくい上げ、綺麗な所作で口の中へと運ぶ。  一口また一口と食べる度に、幸せそうに笑みを浮かべた。 「う〜ん、美味しい。まだまだ沢山あるので、遠慮せずおかわりしてくださいね」 「いや、流石にそれは悪…」 「倒れてたんですから、いっぱい食べて栄養を取らなきゃダメですよ」  半ば強引に三杯目を渡される。 「美味しいですか?」 「あぁ、美味いよ。今まで食った中で一番美味い」 「それは言い過ぎですよ」  見た目や所作と反して、何処かまだ子供のようなあどけなさが感じられる。だが、その笑顔の裏に教団の影が見えそうな気がして、何とも言えない複雑な気持ちになった。  視線をテーブルに落とし、【アンカーネッジ】を訪れた目的を果たすために明日以降の行動を考えながら、スミスは三杯目のスープに手をつけた。
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