夜、月まで翔けあがるためには

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 【ディケイステア】の最下層とアルデラは言ったが、実際には第二百階層は最下層なんかでは全然ないらしい。明らかにまだまだ下があるという。  ただ、そこまで行けるヤツ自体がそうそういない。第二百階層から更に下に降りる正規の方法が分かっていない。第二百階層から下に行ったヤツで、地上に帰りついたヤツが一人もいない。そんな理由で、一般的には【ディケイステア】は全二百階とウワサされているだけなのだそうだ。 「でもアルデラさん。ここって第二十階層だって言ってましたよね」 「だよ。冒険者もまだいっぱいいるね」  オレたちはこの階層を去るために荷物の整理をしながら言った。アルデラが腕輪にはめている宝石は【ディケイステア】の中でもかなりの珍品だそうで、アルデラがその腕輪の宝石を荷物に触れさせると荷物は瞬く間に宝石に吸い込まれていく。アルデラはすべての道具を宝石の中に閉まうと、代わりに一つの看板と箱を取り出して「イアン、これそのへんに差しといてよ」と言う。オレは「はいっす」と差せそうな場所を探しながら、その看板を読んだ。  アルデラ菜園。野菜が欲しい人はお金を箱に入れるか、農作業で返してください。貴方の善意を期待しています。荒らした奴は呪う!!!  ……しぶとくダンジョンと共生しながら生きているのだなあと思う。そのアルデラは靴ひもを結び直し、とんとんと靴で地面を蹴って調子を整えていた。 「第二十階層から第二百階層まで行くのって、相当かかりませんか? だいたい、行けるヤツってほとんどいないんですよね」 「そうだね」  オレはのどかな菜園の土壌に落ちるのどかな日の光を見つめて、そしてその光源をまぶしく見上げてため息をついた。 「……オレは、このダンジョンのできるだけ下層で死んで装備品をロストすることで、装備品をマジックアイテム化させるために生まれました。命を使った運び屋として生まれさせられたんですよ。一度助かった以上、わざわざ死ぬために下層に向かいたくなんかありません」 オレは一度うつむき、アルデラのほうを見た。 「それがオレの命を助けてくれたアルデラさんへの礼儀でもあると思います。命をこれ以上、ムダにしないって」  アルデラはじっとオレの様子を観察していて、金の目がきらめいていた。その目が急に細められて、「キミはどうしたいのかな?」と面白そうに彼女は笑う。 「このアルデラさんと一緒にここでダンジョン商人をやりたいの? いやあ、アルデラさんはもともとこのダンジョンを一階から二百階まで行脚しながら商売してるんだよ? 別にキミのためだけに」 「え?」 「そりゃあ人が多いのは三十階までだから普段は十階から三十階をフラフラしてるが、必要に応じて下にも降りるんだ。もちろん命の危険なんかいっつもある。命をムダにしたくないなら、さっさとそのハリボテ装備をまともなもんに変えて【ディケイステア】から逃げ出すべきだ。……アルデラさんとしてもその選択がオススメだね」 アルデラは演技じみて肩をすくめた。と思うと、笑みは消えて真剣な表情になる。 「アルデラさんはちびっこいから幼く見られがちだけどさあ、結構修羅場も踏んできてて。十六歳なんて国によっちゃあ大人扱いされないようなガキが何も経験せずに選ぶような職業じゃないんだわ、これ」 「……そんな」  オレはいたたまれなくなって唇を噛む。アルデラがオレを心配してくれていることは良くわかったこと、頓珍漢なことを言ってしまった自分のこと、そして。  オレの思慕は叶うことはないだろうということ。そのすべてがいたたまれなかった。たった十日で生まれたこの感情が、初めて他人に優しくされた――ああ、本当に人に心配されて優しくされるというのはこういうことなのだろうと理解させられたことによる錯覚に過ぎないことはオレ自身よく理解していたのだけれど……。  アルデラはくすっと笑って、「もっと世界を学びな、イアン少年」と肩をすくめた。その目の金の柔らかい光。 「キミって、装備品を『装備品自体は無事に』ダンジョンの奥に運ぶのが仕事だろ? 無策で投身自殺させられたわけじゃないんだよな? それじゃあ装備品ごとぶっ壊れるし」 「え……。ああ、落下のダメージを殺す魔法は覚えてますから。上には上がれませんけど」 「十分、十分。じゃあ」  不意に、アルデラの金のひとみの中で、かっと金の星が燃えたように見えた。彼女は明るい、とびきりにイタズラっぽい笑顔で言う。 「二百階まで落ちよっか」  息を呑む暇もない。  アルデラは言うが早いか、十日前のオレのように地面を蹴って背中から【ディケイステア】に落ちていく。オレは思わず彼女に手を伸ばして自分も飛び降りた。ぐんと重力と風がオレを支配して殺そうとする。オレとアルデラを叩きつける先を探している! 【ディケイステア】の外壁がどんどんとオレの横を行き過ぎていく。伸ばす手がアルデラに全く届かない。  しかし、アルデラが無策なはずはなかったのだ。奈落へ、奈落へ、奈落へと落ちていっているのに日の光は変わらずオレたちを追いかけてくる。その光に満ちた空間をアルデラは蹴った。タップダンスのような軽やかな音が響き、風が明らかに表情を変えた。  風が……空気の精の気配がオレたちを守っていた。落ちているのは変わらないのに、風切り音もなければその感覚も無く、落ちる苦痛が無かった。  アルデラのほうが先にオレを捕まえた。「も、もう! 無茶をする」とオレの抗議の言葉に、「ちゃんとついてくるキミもなかなか無茶をする」とアルデラは満足げににやにや笑い、オレの身体を利用して自分の身体の向きを整えた。 「シルフィステップブーツ。空気の精の加護を得ることができる、空飛ぶ魔法の靴さ」 「そんな、伝説かおとぎ話みたいなマジックアイテムが……。【ディケイステア】って……」 「元になるアイテムを奥まで持っていけばいくらでも作れるんだよ。キミを突き落とすことで装備品をダンジョンの奥に運ぼうとしたカルトは手法としては正しいね、人の心がないだけで」  不思議だ。風を切る冷たい痛みがないというだけで落ちることにこんなに恐怖がなくなるとは。いや、きっとそれだけではなく、空気の精に守られていることをきっとどこかで感じ取っているからなのだろうとオレは思う。あるいは、自信満々なアルデラと一緒だからなのか。 「……イアンよお。キミを死なせるために生まれさせたカルトに反抗するために、自分の命をムダにしないって決断できるのは、キミは偉いと思うんだ。それを決断できない人もきっと多いからな」 「オレには……昔は、普通の友達がいましたから。自分の生まれが普通じゃないことは分かっていました。切り離されてしまいましたし、見捨てられてしまいましたけど」 「そっかあ」  風を切る音が全く聞こえないのに、風の精の歌声は聞こえる気がした。ほんの少しずつだけ弱くなっていく陽光の中を、オレたちは落ちていく。 「でもさ、それが決断できるなら。死に場所だって定められた【ディケイステア】から逃げ出して、行方くらませてやろうって決断だって出来るはずなんだよ。こんな、毎日死と隣り合わせみたいなんじゃない場所に、キミは行くべきだ」  落ちる先にどこまで続くか分からない永劫の闇が口を開けていても、怖いとは全く感じなかった。ただ、わずかに掴んでいたアルデラの服の袖を、悲しみに耐えるように握りしめた。陽光の中をオレたちは落ちていく。
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