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「なるほど……。バリスタになりたかったんだもんね。じゃあ今は? そっちの方面の仕事にもう未練はないの?」
もしかしたらわたしと父は、彼の夢を完全に奪ってしまったんじゃないかと良心が痛んだ。
「……未練は、ないこともないですけど。秘書でしたら望んでいた形ではないですが、少しはコーヒーに関わる仕事ができるので、それはそれで僕としては満足です」
「そっか。それならよかった」
彼はどうしてバリスタになる夢を諦めてしまったのか、なかなかその理由を話そうとしなかったけれど。わたしの秘書になることで、形を変えて夢に一歩近づくことができるならわたしにも喜ばしいことだった。だって彼の喜びは、彼に恋をしているわたしの喜びでもあったから。
* * * *
――会長室は重役専用フロアーである三十四階のいちばん奥にある。この階に他にあるのは社長室と小会議室、そして秘書室と給湯室で、給湯室を除く各部屋に専用の化粧室が完備されている。専務と常務の執務室は一応あるのだけれど、現在は人事部長と秘書室長が兼任しているため使用されていない。
給湯室は会長室から直接繋がっていて、これは祖父がこのビルを建てた十年前にこういう設計にしてほしいと頼み込んだらしい。
貢のIDを認証させて初めて入室した会長室は、シンプルながらも異空間のような重厚感があった。
会長のデスクと秘書のデスクにはデスクトップのPCが完備され、会長のデスクは断熱・遮光ペアガラスがはめ込まれた西の窓に背を向ける形で配置されている。あとは大きな本棚やキャビネット、応接スペースにはグリーンのベルベット生地を使用した対面式のソファーセットと木製のローテーブルがあるだけ。なのに、インテリアのひとつひとつに高級感が漂っているのだ。
「――では、僕はコーヒーを入れて参ります。会長はデスクでお待ち下さい。お好みの味などあればおっしゃって下さいね」
「うん、分かった。じゃあミルクとお砂糖たっぷりでお願い」
「かしこまりました」
貢は専用通路を通って給湯室へ入っていき、わたしは暖房が効いた室内でPCを起動させて待つことにした。自分のIDと、父が設定した〈Ayano0403〉というパスワードでログインし、動画配信サイトを開いた。記者会見がネットでも同時配信されていると聞いたので、どんなコメントが来ているか確かめたかったのだ。
「……おー、けっこう好意的なコメントが多い。――お?」
コメント欄をスクロールさせていき、ある書き込みに「いいね」が多くついていることにわたしは目をみはった。
「――お待たせしました。……会長、どうかされました?」
十分ほどで彼はトレーを抱えて戻ってきたけれど、それまでサイトのコメント画面に釘付けになっていたわたしは彼に声をかけられてやっと気がついた。
「あっ、桐島さん、おかえりなさい。ちょっとこれ見てみて!」
わたしに手招きされて隣でPCの画面を覗き込んだ彼も、「おお!」と歓声を上げた。
そこに書かれていたコメントがこれだった。
『放課後トップレディ、誕生! 彼女のこれからに期待!!』
「――これって最上の褒め言葉ですよね、会長」
「うん、嬉しいよね。――あ、コーヒーありがとう。いただきます。……わぁ、いい薫り!」
わたしは会長としての最高のスタートに胸を高鳴らせながら、ピンク色のマグカップに入ったコーヒーの薫りに顔を綻ばせた。
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