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雲が完全に空を覆った頃に、僕たちは民宿へ帰ってきた。まだ11時半だけど、昼間にはしゃぎすぎたせいで結構眠たい。
今夜はすぐにそれぞれの部屋に戻って休むことにした。
だけど、一人になって布団に潜るとやっぱり眠れなくなってしまう。
また、昨日みたいに嫌なことを思い出しそうで目も瞑りたくなかった。
廊下の突き当たりの外にあるベランダに出て、縁の段差のところに腰掛ける。
空は雲のせいで星一つ見えなくなっていたけど、うっすらと月の光は透けていた。
灰色の雲がゆっくりと流れていく。冷たい風が僕の頬を撫でた。
布団の中よりはマシだけど、虚しいことに変わりはない。
ぼんやりと空を眺めていたら、コンコンとノックする音がした。驚きながら音の方を向くと、ベランダの右奥に付いている窓から、先生が顔を覗かせていた。
しまったなと思う。そういえばこのベランダの右奥の部屋は先生の部屋だった。
僕と目が合うと先生が手を振った。
「眠れないのかな?」
「まあ、はい」
「おれもだよ。ねえ、そっちに行ってもいい?ここだとちょっと遠いからさ」
嫌だけど、嫌って言うのもめんどくさくて何も言わなかった。
いや、もしかしたら、本当は来て欲しかったのかもしれない。
先生が少し間を開けて僕の横に座った。
「おれいつも夜は落ち着かなくてさ。寝つきが悪いの」
「だから、昼間は眠そうなんですね」
「そのとおり」
先生は苦笑いで頷いてから空を見上げた。
ふと、天体観測中の先生の顔を思い出す。あの寂しそうな顔が頭から離れない。
だからだろうか。この人になら別に今の気持ちを話せるって思った。
「実は、僕も夜は落ち着きません」
「そっか。同じだね」
「いろいろ考えちゃって。夜って暗い思考になりがちで。ぐるぐる考えちゃうんです」
「ちょっとわかるな。その気持ち」
「先生がそんなタイプだったなんて、なんか意外です」
「だよね。おれもそう思う。前はそんなことなかったんだけどな」
先生は自分に呆れるみたいに鼻で笑っていた。
でも急に真顔になるから驚く。そして、僕の方を向いて言った。
「今はね、おれのこと先生って思わなくてもいいよ。一人の綾瀬蒼一として、いいや、綾瀬も捨てて、一人の蒼一として話を聞いて欲しいな。だから、おれも一人の君に話をするね」
先生は夜の方が生気がある気がする。昼間よりも意識がはっきりしていて目にも力があって、髪もボサボサじゃないし、むしろ、夜の方が先生っぽい。
一人の『僕』か…。その言葉をかみしめる。
「わかりました」
「おれは、みんなに幸せになってほしい。この世界のみんなにその権利があるから」
「でも、難しいですよね。幸せになるのって」
「そう。思ってたよりもずっとね」
先生とは夏休み直前の部活で初めて会って、この合宿が2回目だというのに、なんだかそんな気がしない。こうして話してみると、ずいぶん前から知り合いだったような気がしてくるから不思議だ。
「君は今幸せ?」
先生の言葉を聞いていると、心が素直になっていく感じがした。
「幸せになってきてる途中です」
最近は楽しいことがいっぱいあったけど、そのときの心情とはまた違う。
もっとこう、どんな自分にも目を背けないで、すべてを取り入れた感じ。
久しぶりの感覚だ。
「先生の前向きなところ、僕の知り合いにすごく似てる」
「どんな人?」
「世の中で一番嫌いな、親友だった奴」
風も静まり、あたりは虫の声以外何も聞こえなくなった。
しかし、一瞬、強い風が二人の間を通り抜けて、凪いでいた心にもまた波が立ち始めたような感覚がした。
寂しさが襲ってくる。
幸せってありふれているようで、いつも遠くにあった。
幸せを求めれば求めるほど、不器用すぎて逃げていってしまう。
「僕、幸せになりたい。でも、そう願っては何度も傷ついてきました」
「それでも、あきらめないでって言う、おれはもっと残酷かな。だけど、君にも幸せになってほしいからさ」
僕はもう、求めることをやめたい。
でも、実際には、驚くほど貪欲で、だからこそ空っぽな自分が嫌いだ。
「どうしてですか」
先生の目を見つめる。
「君は、ハナノミチの犠牲者だから、かな」
先生の目は光を通していないけど、母とも兄とも違って、奥には生命の火がしっかりと灯っていた。だから、怖くない。
僕が黙ったままだから、先生は困ったように笑いながら続けた。
「意味不明だよね、ごめんね。でも、とにかく、君も幸せになる権利があるよ。周りがどんなに、残酷でもね。どこにでも必ず光はあって、でもそれは、自分の力でしか見つけられないんだ」
今の僕は、諦めようと無理をしているだけだ。踏み出すのが怖かった。
でも、だからこそ背中を押してくれる言葉を期待していたのかもしれない。
「そんなんですね。あと少しもがいてみます。ありがとうございました」
僕の心は少しずつ枯れている。それでもあと少しだけ、希望を求めさせて欲しい。
そこから先の意識はなく、気がついたときには自室の布団の上で寝ていた。
時計を見ると、朝の10時。
まるで昨晩のことは夢だったんじゃないかと思えてきた。
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