七. 一九二二年 晩夏

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   ***  高下駄を履き、内八文字で歩みを刻む。降りそそぐ陽光をまばゆく跳ね返す櫛や簪が、里津の頬の近くできらきらとまたたいていた。  妓楼の玄関から少しずつ、貴誉の許へと近づく。  池泉庭園の中央の橋を渡り、大門の前まで来た。 「ようこそお越しなんし。葛城様…」  最後の廓言葉を口にしてみれば、ここで過ごした九年間が走馬灯のように脳内を駆け巡る。まさかこの場所から、こんな幸福な思いで出られるとは夢にも思っていなかった。 「この姿も今日が見納めだな」  貴誉が満足そうに笑う。里津もまた万感の思いをこめてほほえみ、貴誉を見あげた。  今日、貴誉と共に華香屋を出る。  華香屋では身請けの際に主人を出迎えさせ、短い道中をおこなわせる。  娼妓の花道の意味合いもあれば、豪奢な着物を新調させてそれを廓に置いていかせるという、最後まで計算高い目論見もあった。  道中の後は昼餉を兼ねた宴席を設け、それで娼妓はようやく男娼の身の上から解放されるのだ。  最後の宴席は豪華なものとなった。  これもまた身請け先の男が設えるきまりで、楼主や番頭、男衆をもてなし、娼妓たちを含めた廓の全員に総花と呼ばれる祝儀を配る。  まるで結婚式のような宴席も終わり、新しく貴誉が用意してくれた若草色の着流し姿に着替えた里津は、妓楼の玄関へと急いだ。手に小さな風呂敷包みを持つだけだった。これが全財産だった。  中央階段正面の玄関では、貴誉の他に鬼灯と桔梗もいた。 「俺たちは、ここまでです、兄さん」  鬼灯が硬い口調で言う。娼妓は玄関から外へ出られないからだ。 「うん…見送ってくれてありがとう、鬼灯、桔梗」  張り見世支度前の化粧っ気のない二人が、真面目な顔で頷く。 「友太(ゆうた)です。俺、友太っていいます。長い間お世話になりました、里津兄さん。可愛がってくださってありがとうございます。どうぞ、お幸せに」  鬼灯の言葉に息を飲んだ。耐えていた涙が堰を切ったように溢れだす。 「友太というのか…! 元気で、友太」 「はい。予定では年季明けまであと二年です。でも、楼主様と話あって、もう一年多く働くことで、桔梗と一緒にここを出られるように約束してもらったんです。いつかお会いできますよね」 「もちろん…!」  二人の未来がどうかまばゆいものであるようにと、そう祈らずにはおれない。  貴誉が懐から名刺を差し出した。 「ここにいるからいつでも会いに来るといい。困ったことがあればなんでも相談してくれ」 「はい。ありがとうございます」  青年らしい微笑を清々しく浮かべた鬼灯が礼儀正しく頭をさげる。 「よかったですね、里津さん。ここに撫子兄さんがいたら、またどんな嫌味を言われたかしれませんから」  桔梗の茶化すような声に、指の先で目尻をこすりながら里津は口角をあげた。 「ああ、よろしく伝えてほしい」  撫子は今、三川から貸し出しを受けている。三川が気を利かせてくれたらしい。彼も来月には身請けされてここを出るのだった。 「地金は桔梗が上手に育てますよ。こいつは生き物が好きだから」  鬼灯が明るく続ける。 「ありがとう。ありがとう二人とも、本当に…!」  あらためて別れの言葉を交わした。  貴誉と廓を出る。  いったん立ち止まり、振り向いて廓を眺めた。嬉しくて幸せなはずなのに、なぜかぽっかりと胸に穴が空いたような、寂しくて不思議な感覚がする。 「よく頑張ってこらえたな。里津は俺の誇りだ」  労わりに満ちた貴誉の言葉に、再び涙がわきあがりそうになる。短い髪にさらりと指をかきいれられた。 「この髪型…可愛いな。昔みたいだ」  はにかんだ声で言う。 「いや。こんなときにもう少し気のきいた台詞はないものかな。まるで青臭いガキみたいだ」  恥ずかしそうに視線を側める。そんな軽口を聞くのも久しぶりで、なんだかどきりとした。 「貴誉様…」  ほんのり頬を染める貴誉に、里津の心臓はとくとくとかしましい。  好きで好きでたまらない。彼が高校生の頃から、ずっと。 「ありがとうございます」  自然と頬がほころんだ。そんな感動を噛みしめながら里津は続けた。 「髪も売れるのだそうで、切られたんです。でも、長いほうがよろしければこれから伸ばします」 「どちらでもいいさ。俺はどんな里津も好きだ」  甘やかな科白と共に肩を抱きよせられた。 「これからはずっと一緒だからな」  欲しかった言葉に里津は陶然とする。  そっと触れあった唇はいつしか深く咬みあわされていた。  夕陽が静かな森の木々を照らすなか、お互いの存在を貪るようなキスを交わしていた。 (了)
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