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いつもなら行くはずもないブライダル向け高級エステに行った。
自分の肌なのかと思うぐらいにツヤツヤになり、妙な安心感の中でアパートへと帰った。
春が近づいてきたとはいえ、まだ夜になれば少し肌寒い。風邪気味なのか花粉症なのか、鼻水がちょっと出る。
体調管理には気をつけないとな、と思いながら私はアパートの階段を上る。
階段を一つ一つ上るたびに、カン、カンと音がする。
平成初期の物件は錆びだらけの階段で、段数まで頭の中に入っている。もう三年も住んできたが、再来月にはマンションへと引っ越す。
新しい生活はもう目の前だ。
上りきったところで、私の部屋の前に人影が見えた。
通路に照明があるので、その人影が女性だということはすぐにわかった。ただ、こんな時間に訪問者が来る予定はなかった。
近づくべきか、一旦、引き返すべきか、少しだけ戸惑っていると、女性がこちらを見た。目が合ってしまった。
知らない人……だと思ったが、頭の奥が揺らぐような感覚があった。違う、私はこの人を知っている。
「あの」
声をかけられてしまった。さすがにここで踵を返す勇気はない。
「はい」
「石上……絢夏さん、ですか……?」
自分のフルネームを尋ねられ、私は反射的に「はい」と答える。
「あ、突然、すいません。私、高橋侑奈といいます。あの、随分昔のことになるんですけど、お会いしたことがあって……あ、その」
タカハシ、ユウナ、その響きを私は知っている。
「高橋蒼佑の妹です、私」
その名を聞いた瞬間、脳裏に記憶が甦る。
あれは泣いている私の姿だ。
人生であれほど泣いたことはなかった。それでも枯れることなく涙が溢れ続けたあの頃。
もうあの頃のことなんて何ともなくなったはずなのに。
記憶の中で、その名を持つ彼の姿が蘇る。
ずっと、あなたのことは頭の中から消してしまっていたのに。
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