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星屑の宴
「男子更衣室にね、ウンコ、ぶちまけられてたらしいですよ」
ダウンコートにミニスカートと、アンバランスなコーディネートで現れた菜子ちゃんは、声を弾ませて報告した。僕は、彼女のむっちりした生脚からツインテールの頭の先まで、まじまじと眺めて「あぁ」と頷く。
「ウンコめっちゃ飛び散ってたらしいな。山根のロッカーに」
「なんだ、知ってたんですか?」
菜子ちゃんは唇を尖らせて、僕の座っているベンチに無理矢理入り込む。子ども二人が並んで座れる程度の大きさの古いベンチは、ギシギシと不穏な音を上げる。しかし菜子ちゃんは気にする様子もなく、柔らかい身体を僕に押し付け、トートバッグから缶ビールを取り出した。僕も暖かい緑茶が入った小さな水筒を、ダウンコートのポケットから出す。
「あ、お酒じゃない!」
「中身、熱燗やで」
「嘘だ! お茶の匂いするもん」
菜子ちゃんは僕の手元に顔を近づけて、匂いを嗅ぎ「ほら、お茶じゃん」とこちらを睨み上げた。黒く長い髪の毛から、ふわりと香る石鹸の香りを感じながら、僕は何も答えずにやり過ごす。
「ノリ悪いなぁ。外で呑むの、久々なのに」
菜子ちゃんは不貞腐れた顔でビールの蓋を開け、勢い良く煽る。すぐにむせ返る菜子ちゃんを眺めた後、僕は空を見上げた。
暗い空には、まばらに散らばった星達が薄い光を放っている。緊急事態宣言の影響で、飲食店がほとんど閉まっている今でも、綺麗な夜景を眺めながら呑める場所があると聞いてきたのに、まさか、僕達が看護師として働く介護施設の裏にある、汚い公園だとは思わなかった。
足元には、土に塗れたビールや酎ハイの空き缶がいくつも転がっている。よく見ると、コンドームの空き袋も地面に埋まりかけている。僕はそれをジッと見つめていると、菜子ちゃんは「誰なんでしょうねぇ。ウンコ事件の犯人」と唐突に話を戻す。僕は「さぁ」と首を傾げ、視線を菜子ちゃんに戻した。
「てか、被害者が山根なのが笑えますよね。あいつ、色々やらかしてたのがバレて、辞める事になったらしいですよ。あ、もしかして、ウンコ事件も山根の自作自演だったりして」
「それやったら、だいぶヤバいなぁ」
楽しそうに話を続ける菜子ちゃんに頷き、僕は緑茶に口を付ける。一度蓋を開けた中身は、すっかりぬるくなってしまった。
「ウチって、誰でも採用するからヤバい奴だらけですよねぇ」
「そのわりには、常に人手不足やしな。残業も多いし」
僕達は揃って白い溜息を吐き出し、夜空を見上げた。いつの間にか顔を出した月が、墨汁色だった雲を灰色に照らしている。
「先輩。私もね、仕事を辞めるんですよ」
「そっか」
菜子ちゃんの告白に、僕は空を見上げたまま頷く。菜子ちゃんは「あっさりしてるなぁ」と少しだけ眉を下げた。突然、スタッフが仕事を辞めるのは、うちの職場ではよくある事だ。珍しく菜子ちゃんから誘われた時点で、嫌な予感はしていた。
「先輩。来年もここで呑みましょうね」
「嫌や。来年には店、開いてるやろ」
「いいじゃないですか。ここはもう、私達の思い出の場所なんだから」
そう言って笑う菜子ちゃんは、どこまでも可愛らしい。彼女なら次の職場でも、愛嬌の良さで上手くやっていくだろう。
感傷に浸っていると、菜子ちゃんの手がいつの間にか僕に触れているのに気が付く。冷たい彼女の掌に、少しずつ暖められて行くのを感じながら、僕は素朴な夜空を見上げた。
久しぶりに訪れる公園は、相変わらず汚い。僕は身震いをしながら、狭いベンチに腰を下ろした。ダウンコートのポケットからキンキンに冷えたビールを取り出し、蓋を開ける。この寒空の下で、菜子ちゃんはよくビールなんて呑もうと思ったものだ。
菜子ちゃんが仕事を辞めてから、僕達は会っていない。あれから数年が経ち、マスクを外して堂々と外を歩けるようになった今では、彼女の連絡先すらわからなくなった。そんな菜子ちゃんの存在を思い出したのは、一向に改善されない職場環境に嫌気が差し、今日、退職届を出した時だ。
コンビニでビールを買った僕の足は、自然とこの場所に向かっていた。あの夜と同じ、まばらな星空を眺めていると彼女との思い出が込み上げて来る。
もし、あの夜、ウンコ事件の犯人が僕なのだと伝えていたら、菜子ちゃんはどんな反応をしていただろう。寒さで腹を壊していて、山根のロッカーの前で我慢出来ずに漏らしてしまったのだと告白したら、菜子ちゃんは笑ってくれただろうか。あの時の可愛い笑顔が、ぼんやりと脳裏に蘇る。
冷え切った身体に、僕は一気にビールを流し込む。僕は盛大にむせて、少しだけ泣いた。
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