初恋と傷跡

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 聡一(そういち)兄ちゃんが僕の兄になったのは、僕が小学四年生の頃のことだった。  女手一つで育ててくれた母さんが再婚すると聞いたとき、僕はそれを素直に喜ぶことができなかった。もしも相手の家族に受け入れてもらえなかったら、僕はこの世のどこにも居場所を失ってしまうからだ。  身体が貧弱で運動が苦手だった僕は、学校では誰からも相手にされず、常に独りぼっちだった。頭もあまりよかったわけじゃない。だから母さんの再婚相手にとても優秀な中学生の息子がいると聞いたとき、僕の心はますます憂鬱に沈んでいったのだった。   * * * 「よろしく」  僕と母さんが相手の家に引っ越した日、聡一兄ちゃんはそれだけ言って自分の部屋へ引っ込んでしまった。頭の中で必死に何回も練習してきた自己紹介の一つもさせてもらえなかった。 「悪いな、あいつはシャイだから緊張してるんだ。許してやってくれ」  新しく父さんになった人はそう言って笑った。そんなの、僕だって同じなのに。  どうにかして彼に歩み寄りたくて、僕は忙しい両親に代わって積極的に家事を請け負った。元々、母さんが再婚する前から家のことはほとんど僕がやっていたから、家事のスキルだけはそれなりに身についていたのだ。  掃除も洗濯も、温かい料理だって用意した。けれど兄ちゃんは「そんなことはしなくていい」といつも僕の仕事を取り上げる。自分にすり寄ろうとする僕が鬱陶しかったのか、家事の出来が悪かったのか。どちらにせよ、唯一の取り柄すらなくなって、僕が兄ちゃんに歩み寄る手段は完全に断たれてしまった。  僕も当時は小学生だったし器だってそんなに大きくない。僕は完全に拗ねてしまって、次第に聡一兄ちゃんと歩み寄る努力をするのも馬鹿馬鹿しくなった。忙しい母さんと父さんは気が付いていなかったかもしれないが、兄弟仲は最悪だった。   * * * 「風戸(かざと)くん、お母さんに電話してお迎え頼んでおいたわよ」  僕は新しいお父さんの養子になって、それに伴い苗字も「風戸」に変わった。  小学五年生のある日。僕は体育のハードル走で着地に失敗し、足首を大きくひねってしまった。病院でレントゲンを撮ってもらったけれど骨に異常はなく、ただの捻挫ということだったが、先生は勝手に僕の母さんに迎えを頼んでしまった。  母さんはこれから夜勤に向かう時間だ。捻挫ごときで仕事を休んで来てもらうわけにはいかない。僕は勝手に保健室の固定電話をとって「迎えはいらない」とまくし立てると、一人で足を引きずりながら学校を後にした。  木枯らしの吹く初冬のことだった。僕は家までの道のりを亀のような速さでノロノロと歩いた。まだ冬用に衣替えの用意もできていない時期だったから、冷たい風が身に染みて仕方がなかった。  捻挫の他に、肘と膝に一か所ずつできた傷跡がヒリヒリと痛んだ。派手に転んだとき、クラスメイト達が一斉に声を上げて笑ったことが急に思い出されて、胸にぽっかりと空いた穴に冷たい隙間風が入り込んでくるような心地だった。  チリン、とベルが鳴って、僕の真横を自転車がスピードを出しながらすり抜けていった。慌てて避けた瞬間、捻挫した方の足を思い切り地面についてしまい、僕は小さく悲鳴を上げて身体をふらつかせた。  その時だった。僕はとても大きな手に身体を支えられたのだった。その腕に抱かれながら、ぎゅっと温もりにしがみついた。 「……ハル」  声変わりをして少し出し辛そうなハスキーボイスが僕の名前を呼んだ。 「……聡一兄ちゃん」  このとき初めて僕たちはお互いの名前を呼び合った。どういうわけか胸がぎゅっと締め付けられるように痛くなって、僕はわけもわからず泣いてしまった。  聡一兄ちゃんは困ったように僕の顔を見つめていたが、やがて自分が首に巻いていたマフラーを外すと、僕の冷たくなった首に巻き付けた。 「……乗って。負ぶって帰るから」  彼はぶっきらぼうに言い放つ。僕は首を横に振ったが、彼が折れないので諦めて背中にしがみついた。  それから聡一兄ちゃんは家までの道のりを、僕を負ぶったままゆっくり歩いた。僕は彼の背中をとても大きく感じていたけれど、実際には当時彼はまだ中学三年生で、同世代と比べても細身な方であったから、さぞかし大変だっただろうとこの時のことを思い返すたびに同情する。  兄ちゃんは帰り道、特に何も話さなかった。僕も喋りたい気分ではなかったから、ずっと黙って彼の背中に顔を埋めていた。ハードル走で転んだことも、みんなに笑われたことも、素直に母さんに迎えに来てほしいと言えなかったことも。何も話さなかったけれど、兄ちゃんの背中は心地よかった。
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