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この老人もまた、これまで見送ってきた自殺志願者と同様に賢かった。僕が秘密保持によって話せないというポジションを即座に把握し、僕が喋りやすいよう配慮したのだが、法の穴を突いたような行為も自殺幇助士として答えてしまうのはリスクが高い。
「そうですねぇ、今答えを言ってしまうと、最後自分がなんて言うのかって楽しみが減るでしょう。それは自殺冥利に尽きないのでは」
「ハハハ、面白いね君は」
老人の皺だらけの笑顔を見て思うことがある。死期を自ら定めることができるというのは、もしかしたら最高の幸福なのかもしれないということ。
本来死はゆっくりと訪れるし、急襲することもある。準備の猶予はそう多く残されていないことが常なのだから。
「この薬であなたは楽になれます」
安楽死の錠剤。自殺幇助士のみ持つことが許されている死神の介錯。
老人は突きつけられた錠剤を一目見やり、想い馳せるように宙を見上げて言う。
「君はー……最初に詠まれた和歌を知ってるかい?」
「知りませんが」
老人は、テーブルに置かれたメモ用紙へボールペンを滑らせる。
『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を』
「どういう意味ですか?」
「私はこの歌が好きでね。スサノオノミコトが妻になる女性へ詠んだ歌だ。現代風に言えば、おまえを一生守ってやるよ。と、少々乱暴な訳し方だがそんなところだよ」
老人には愛する妻がいたらしいがもう他界した。子供はおらず孤独の身だと言う自分史を一〇分程度語った。
「ところで、そのレコーダーは切ってもらえないのかな」
老人と僕の間のテーブル上に置かれたボイスレコーダーを老人は指さす。
「申し訳ありません。法令によって僕とあなたの会話は全て記録する必要があります」
「そうか」
言うと老人は口元に手をやって、わしゃわしゃと髭の感触を確かめながら唇を触る。
老人がまだ語るべきことを語っていないということは、急に和歌の話しを始めたところから薄々察していた。
その証拠に老人は口元に手をやっている。これは今にも喋りだしたいが心理的に戸惑っている証である。
「じゃあ、日本で最後に読まれた和歌を知ってるかね?」
「最後なんて、わかるはずないじゃないですか。だって今なお続いて――」
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
老人は僕の言葉を遮り悠々と詠んだ。
「これが最後だよ」
「なぜそう言い切れるのですか?」
「私が今詠んだから。今この時、この瞬間をもってして最後とは言い難いがね。少なくとも私が詠んだ時点では最後に詠んだ和歌だよ。最初にして最後の和歌。こんなことすら世の道理として成立してしまう。美しくないか?」
言葉遊びに過ぎない。だが、老人は僕からどうしても「最後に自殺志願者はなんと言うか」について知りたがっているのだろう。しかしこんな回りくどい言い回しで僕から引き出せるとでも考えているのか。あるいは何か他の狙いがあるのだろうか。
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