ハル

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それは薄い桜色の花弁が徐々に咲き始める時期だった 男はある公園の桜並木をふらふらと歩いていた 何処へ行くわけでもなく当てもなくさ迷っているという感じであった 男はふと空を見上げた 都会の空でも青く透き通った空が見える 男はふぅと重いため息をついた 『今年で五年になるのか…』 男はかつて金と名誉を欲しいがままにしていた 有り余る富、鳴り止まない名声 美人の妻と息子と娘の四人家族 裕福で何不自由ない生活を送っていた あの日までは… 男は一代で富を築き上げた その敏腕さは誰もが感服するものであった 家の部屋に事務所を立ち上げそこから小さな事務所を借り瞬く間に大会社となり一部上場企業にもなった それまででは飽き足らず海外にも手を出しネットを駆使しグローバルに活躍していた その手腕で一代で富を築き上げ名声を欲しいままにした わずか三十代で全てを手に入れその手腕を買われて名家の娘と結婚し子供を二人授かった 男の子と女の子だ 二人とも幼い頃から私立の幼稚園に通いエスカレーター式に順調に成長していった 息子は父を見本に小学生低学年から生徒会に入り、娘は数々の芸術部門で賞を総なめにした 二人とも自慢の子供であった 何事も順調に進んでるように思えた ある時男は秘書にその日のスケジュールを全部任せた 普段なら自分も把握しているスケジュールを秘書ち全任せしたのだ その日は朝から体調が優れなかった 妻の作った朝ご飯を無理矢理詰め込み薬を飲んで出社した 体調不良のため秘書に全てを委ねたのだ 男は一人でたった一代で伸し上がった男だ 他の人間に大事な仕事を任せるなどした事がなかった だからその日は人生で初めて他の人間に大事な一日を任せたのだった 出社し秘書とスケジュール確認、朝の事務をこなし昼前には事務作業も終えた少し早い昼食を取ろうと行きつけのカフェに出向いた時だった 朝からの体調不良がここにきてどっと押し寄せた カフェで倒れたのだった すぐに救急車に運ばれた 病院で検査をして治療を受け、結果少量の毒物が検査された 幸い命に別状はなかった しかし昏睡状態に陥って会社や仕事どころではなかった 家族の見舞いも理解出来てない状況だった 入院してから二ヶ月が過ぎた 通院は必要だかやっと退院が出来た まずは家に帰った 様子がおかしい 大きく変わったところはないが違和感を覚えるような感覚だった 気の所為だと自分に言い聞かせ荷物を整理した 午後から会社に出社した 二ヶ月も会社を休んだのだ かなりのダメージがあるはずだ それを立て直さなければ 色々なシミュレーションをしながらの出社だった しかし会社も様子が変わっていた 急な社長不在の二ヶ月で混乱に陥っていたと想像していたのがむしろ社員の指揮が上がり会社の売り上げが上がっていた 何かおかしい 急いで社長室に向かうとそこに座っていたのはかつての秘書であった 『おはようございます。退院おめでとうございます』 眉一つ動かさず淡々と挨拶をし事務作業を行っていた 『これはどういう事かね?』 『どうもこうもありません。会社は貴方がいらっしゃらなくても大丈夫という事です』 理解が出来なかった 自分が一から一代で築き上げた会社だ 大切な取引などは自分自らが行っていた 大切な書類も人任せではなく自分で管理していた 誰も私の代わりなど務まるはずかなかった 『鈍い方ですね』 初めて秘書の口元が笑った 『何の為に貴方の秘書を三年も務め上げたとお思いですか?』 思考回路が追いつかない 一体この男は何を言っているんだ!? 『貴方の秘書としての三年間、私がただ付き人としての秘書だとお思いですか?』 『貴方について三年間、貴方のスケジュールを共にし、参考書類には全て目を通し大事な取引では横で貴方のやり方を学ばせて頂きました。感謝していますよ』 この男は何を言っているのだ!? 『今は貴方がいた頃と体制がだいぶ変わりました。社員の指揮も上がり会社としても纏まりつつあります。今は私が社長代理を務めておりますが、実質の社長は私です。貴方はもう用済みなんですよ』 まるで虫を見下すような目でほくそ笑みながら私に視線を向けながら淡々と元秘書は語った 『あ、あと御家族の事なんですがね』 なんだ!?何かまだあるのか!? 『早く離婚届書いて貰っていいですかね?いまでは息子さんも娘さんも私になつき奥様も私の虜です。ようするに貴方は邪魔なんですよ』 何を言っているんだ? 整理がつかない 思考回路がおいつかない 誰かこの状況をわかりやすく説明してくれ! 『要するに貴方はもうお荷物、お払い箱です。会社でもご家庭でも。離婚届にサインをしたらまたお会い致しましょう』 そう言い終わると社長室から追い出され会社の外にまで追い出された 訳の分からないまま自宅へ戻ると妻が深刻な顔をして待っていた 『貴方にお話があります』 そういうと妻はいきなり土下座をした 『大変申し訳ございません!初めはただ慰めて貰ってただけなんです。ですが何時からか出来心が芽生えまして今ではあの方を愛しております。慰謝料は言い値でお支払い致します。どうか私と別れて息子と娘にも会わないでください』 震えるような泣いているような絞り出した声で妻はずっと土下座をしていた テーブルには緑の紙が一枚置かれていた 何も考えたくなかった ソファーに深く座り宙を見つめていた 気がつけば私は緑の紙にサインをしていた あれから五年が経つのか 会社を家族を名誉を名声を全て失った 金はそこそこ手元に残った 安アパートを借りて質素な生活をしていた為貯金が大幅に減る事はなかったが働く気力の失せた私は何の仕事もせずにただ宙を見つめてはため息をつくそんな生活をしていた ふとある日思い切って外に出てみた 近くの公園をのんびり散歩してみた 丁度桜が咲き始めるところであった 『もうそんな季節か』 思えば仕事を始めてから家族を作り、仕事と家族の両方を失って今までこんなにのどかに散歩するのは初めてかもしれない 咲き始めた桜を見ながらゆっくりと歩いてみた 公園の桜並木を通り過ぎると川に出た 小さいが綺麗な川だ 都会にもこんな川があるんだなとふと思った 手すりにもたれ掛かりながらせせらぐ川を見下ろしていると後ろから人にぶつかった その瞬間体が宙に浮き気が付くと私は落ちていた 落ちている間色んな事が走馬灯のように頭をよぎった 私はどこで失敗したのだろう 今となってはわからない ただ一つ言える事はもう先は無いという事だけだ 悔いの多い人生だった 人間案外人生は悔いが多いのかもしれない 男は川へ転落し打ち所が悪く出血多量で出血性ショックで亡くなった 橋の上では複数人の野次馬がああだこうだと言いながら救急車の到着を待っていた 男は静かな笑みを浮かべながら息を引き取った
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