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ピアノ研究会の部室についてしばらくして、佐伯や会長の高崎先輩たちが集まり始める。次第に周囲がワイワイとしてきて、落ち着かなくなってきた蒼汰は部室を離れた。
あいつを呼び出して練習でもしておくか……。
日野さんのことを頭に浮かべながら部室棟の廊下を歩いていくと、エントランスホールのところに漆黒の巨体を横たえた夢幻ピアノが見えてきた。
まったく、今日がワーグナーで、明日がブラームス……。できるなら一日にまとめてほしかった。それに今さらだけれど、どうして二曲も発表会で演奏しなければならないんだ。頭がごちゃごちゃになってどうにかなりそうだ……。
しんと静まり返った空間で、一人ピアノに向かい合って練習をしていると、だんだんと落ち着かなかった心が静まっていくのが自分でもわかる。
透き通るように透明で、それでいて温かい。まさにあの〈間奏曲〉そのもののような響きじゃないか。
そうだ……。きっと発表会でも、このピアノが蒼汰の演奏をどこからか見守ってくれるに違いない。そう信じよう……。
気がつくと、リハーサルの時間が近づいていた。
いけない、いけない。また遅刻するところだった。
蒼汰はピアノを離れると部室棟を飛び出した。
人混みをかき分けるようにして並木道を早足で抜けながら、蒼汰は呪文のように自分に言い聞かせた。
大丈夫、大丈夫。みんなに迷惑はかけられないんだから。今まで通り、練習と同じ調子で……。
息を切らしながら講堂にたどり着いて、ステージに目を向けた瞬間に、蒼汰の思考はスペースシャトルのように講堂の天井めがけて吹っ飛んでいった。
ぼ、僕のミューズ……。
ステージ上には、紺地のドレスを身にまとった先輩が立っていた。スポットライトを浴びて、ドレスに施された銀糸の星々がキラキラと光り輝く。蒼汰の頭のなかにどこからか、清廉なワーグナーの〈結婚行進曲〉がそよそよと流れてきた。先輩、やっぱり僕と結婚してください……。
「あっ。上川くん、やっと来た……」
ステージ下に駆け寄ってひれ伏さんばかりの蒼汰を見て、尾山先輩がネックレスの輝く胸元に手を当てた。
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