第10話 歌合戦

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 ピアノの向こうから早坂さんの声が飛んでくる。 「もう、上川君ったらどこ行ってたのよ。ひょっとして遅刻の常習犯なの?」  見ると、レモン色の鮮やかなドレスを纏った早坂さんが腰に手をあててプンプンと怒った顔をしている。  蒼汰はぽかんとした顔を上げた。一瞬、誰だかわからなかった。 「ご、ごめんなさい。きれいだね……」  謝りながら蒼汰がその可愛らしいドレス姿を褒めると、早坂さんが照れたように顔をぷいと背けた。 「謝るなら謝る、褒めるなら褒める。どっちかにしてよ。調子が狂うでしょ」 「そうだよね。よく似合ってるよ、そのドレス……」  機嫌を直した早坂さんが、いつもの笑顔に戻って言った。 「もう。いつまでもそんな花火に驚いたカピバラさんみたいな顔してないの。はやくステージに上がってよ。さっそくみんなで合わせないと」  早坂さんに促されて各々がピアノにつくと、みんなの顔がぐるっと見渡せる。ピアノの向こうから尾山先輩が、少し高調したような緊張感のある声で言った。 「じゃ、行くよっ。イチ、ニイ……」  正真正銘の五台のグランドピアノから、〈ニュルンベルクのマイスタージンガー〉の冒頭の動機が高らかに打ち鳴らされた。  ――中世の街、ニュルンベルクにやってきた騎士ヴァルターは、そこで綿々と歌の芸術を受け継いできた街の親方たちに会う。明日の歌合戦の勝者が親方の愛娘エファと結婚できると聞いて、名乗りを上げたヴァルターに宿敵ベックメッサーが挑んでくる……。  安定感のあるハ長調の響きのなかで、蠱惑的な半音階の旋律がここそこで心をくすぐる。  なんだか知らないけれど、すごく気持ちがいい。尾山先輩にリードされながら、日野さんが完璧に合わせた五台のピアノが高らかに〈芸術の動機〉を歌い上げる。やがて音楽はエファに対する〈愛の動機〉へと流れ込み、表情豊かに尾山先輩の描き出すその旋律を、蒼汰は〈情熱の動機〉で精一杯に受け止めた。けれどその気持はすぐに〈哄笑の動機〉によって混ぜ返されてしまい……。  ――僕にはまだ尾山先輩に愛を訴える資格なんてないんだ。仕方のないことだ。けれど、もしナマハゲに、一條先輩の丸鶏に勝つことができれば……。
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