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カピバラ……? ヌートリア?
それってたしか、現生で最大の齧歯類とか言われているネズミたちのことだよな。
動物園の温泉に浸かっているあいつらの顔を思い浮かべて、蒼汰は唸った。自分は、ピアノを弾いているときに、あんな顔になっているのだろうか……。
考え込んでいるうちに、ピアノ研究会顧問の井上先生がステージに上がって挨拶を始める。
蒼汰たち一年生の演奏を労ってもくれたが、それ以上に先生の言葉に一番力がこもっていたのは三年生の演奏を褒めたときだった。
――それはそうだろう。
とくあんなスーパーな演奏を目の当たりにしては。
ステージ近くの一段と華やかに着飾った先輩たちのなかに、まるでスポットライトを浴びるように一際輝いている人がいる。
すっきりとしたシルバーのワンピースを着たその人は、ウェーブのかかったセミロングの黒髪を揺らしながら、シャンパングラスを片手に周囲の学生の話に耳を澄ませたり、肩を揺らして笑ったりしている。
尾山美咲先輩……。文学部の三年生で、ピアノ研究会の男子学生に限らず女子学生からも憧れの眼差しを向けられている、ピアノ研究会のミューズといっていい存在だった。蒼汰にとってその人は、エベレストのてっぺんに咲く一輪の花にほかならない。
その一挙手一頭足を食い入るように見つめるうちに、蒼汰の喉元にじりじりとした焦燥がこみ上げてくる。
蒼汰は、立食テーブルに置きっぱになっていたグラスに手を伸ばすと、残ったコーラを一気に飲み干した。溶け残っていた氷の小さなかけらが、グラスのなかでカラカラと転げて音を立てる。
隣に立つ佐伯も、蒼汰の目線の先を追ってつぶやいた。
「驚くよな。あんなにピアノが上手い先輩がいるなんて……」
尾山先輩が発表会で弾いたのはリストの〈愛の夢〉第三番。しなやかな分散和音に乗って、大きな起伏を持った旋律が空高く飛翔する、果てしなくスケールの大きな演奏だった。
同じリストでも、僕の弾いた出来損ないの〈コンソレーション〉とは雲泥の差だ……。
「僕もあんなふうに弾けるようになったらいいのに」
「はっ。ムリムリ。お前、自分がどれだけ下手くそかわかってるのか? 月とスッポン、いや、月とミジンコくらい違うんだぞ?」
佐伯がまた失礼なことを言ってくる。蒼汰がムッとして佐伯を睨みつけると、早坂さんが隣で悲しそうに首をふった。
「そうだよ、ミジンコなんてかわいそう……。せめてお団子とかマカロンとか、もっといい例えがあるんじゃない?」
「希実ちゃんはスイーツが大好きなんだね」
佐伯が相好を崩す。
月とマカロンでも、言いたいことは変わらないのではないか……。
褒められているのかけなされているのか、蒼汰の気持ちは釈然としないままいつも置いてけぼりだ。
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