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紫色のスーツに身を包んだその男は、よく透るバリトンの美声を効かせながら熱心に先輩に語りかけた。
「……たしかにあなたの言う通りかもしれません。日野氏の調律したあのピアノは素晴らしかった」
「ですよねー。さすが神レベルっていうか、もはや創造主?」
尾山先輩が声を弾ませると、男は首をふった。
「創造主は調律師というよりピアノの製作者の方では……。いや、そんなことじゃなくてですね。わたしが言いたいのは、今までこの自分が、他人の演奏に感動したことなんてなかったということなんです」
「はあ……」
後ろ姿の尾山先輩の首が右の方に傾げる。
男は着ているジャケットの袖が本開きになっていることを見せつけるかのように袖口のボタンをひとつひとつ外していった。
「それがどうですかっ。尾山さんのあの演奏は。いまだに、いまだにですよ? この腕のなかで鳥肌が消えてなくならない」
はたしてシャツと一緒にぐいとめくって見せた男の腕には、大きくて高そうな腕時計が日の光を反射してギラギラと暑苦しく輝いていた。
「一條先輩だな。相変わらず恥ずかしいやつ……」
耳元で佐伯にささやかれて、蒼汰は頷き返した。
なるほど、ピアノ研究会のなかでも相当ピアノが上手かった先輩だ。発表会の演目はたしか……。
一條先輩が背広をひるがえしながら悠然と続ける。
「……わたしに言わせればですね。日野氏の調律の良し悪しなんて、尾山さんの演奏を前にしたら関係ないんですよ」
「本気でそう思ってますか?」
尾山先輩が突然、キッと一條先輩のことを睨んだ。
思いがけない反応に慌てたのか、一條先輩は尾山先輩の鋭い視線から逃れるようにして顔を明後日の方向へ向けた。
「お、思ってません……」
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