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蒼汰は首をふった。
「僕、発表会のたびにピアノ教室のことが頭に浮かんでくるんですよ。失敗した発表会のことも、どうしても忘れられなくて、しんどくて」
「そう……。じゃあ、どうして今回は……?」
「巻き込まれちゃうんです、なぜか。今日だって大学で、部活のみんなと練習していて……」
蒼汰の顔を覗き込むようにしてナマハゲが尋ねた。
「――それは楽しくないの?」
「わかりません。今だって、逃げだしたくなる衝動に駆られるんです。何もかも投げ出して」
そうだ。今だって、目の前に迫った発表会が消えてなくなればどんなにいいかしれない。するとナマハゲは、急にさっぱりとした声になって言った。
「嬉しいわ……。それを聞けて」
なんだって……?
全身の血が、サケかニジマスのように頭に向かって逆上るのを蒼汰は感じた。
「う、嬉しい? 僕がこんなに苦しんでいるのにですか?」
「そうじゃなくて。逃げたくなるってことは、逃げていないわけでしょう? それだけピアノが好きだってこと。みんなとの練習だってきっと同じ……」
「か、勝手なことを言わないでください。僕はピアノに向かうたびにひどい気分になるんですからっ」
こいつ、急に謝ってきたと思ったらすっとぼけたようなことを言って。人の話をちゃんと聞いているのか。
ナマハゲが、明日の天気の話でもするかのように訊いてくる。
「それで……、どんな曲を弾くの? 発表会で」
「え? 曲ですか? それは……ブラームスの〈間奏曲〉です。イ長調のやつ、作品118-2です」
「いい曲じゃない! アンダンテ・テネラメンテ……」
「でも僕にはすっごく難しくって、もう特訓しまくって……。せっかく先輩に薦めてもらった曲だから……」
ナマハゲが生温かい目を向けてくる。
「それって、女の先輩?」
「そ、そうですけど……。いや、今は尾山先輩のことは関係なくってですね」
「大変なのね」
「そ、そうなんですよ。しかもそれだけじゃないんです。いつのまにか五台ピアノなんかも始まって」
「五台……ピアノ?」
不思議そうな顔をするナマハゲに向かって、蒼汰は仕方なく説明をしていった。
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