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第三章・君が遠くて 2ー②
家に一旦帰ると、父と母は買い物にでも行っているのか、誰もいなかった。
その後も、七海の信頼度は絶大だったので、ちゃんと御礼を言って帰って来たかと聞かれる程度で、何のお咎めもなかった。
母は、早くから自立し、生計を立てる七海を「渡辺さんとこの七海君は凄い」と絶賛して、盲目的に信用していた。
七海の母もそこは見栄を張っていたのか、自慢の息子が家出したとはママ友には言えなかったようだった。
週明けの大学の昼休みには、いつもの席に七海がおらず、そういえば置き手紙にも仕事だと書いてあったのを思い出した。
何故かホッとしている自分がいる。
何とか昨日の事をなかった振りをする覚悟をしてきてはいたが、会えば動揺せずにはいられなかったとは思う。
建築学科とは離れた場所に座り、昼食を取ろうとすると、背後に人の気配を感じた。
晴樹がランチのトレイを手に、隣へと座って来た。
「冷たいなぁ、将人君。渡辺がおらんでも、こっち来てくれたらエエのんに」
「晴樹君……」
「なぁ、何で今日は渡辺おらんのん?」
「……何や、仕事やって言うてたけど?」
「そうか。言うといてくれたら、いける授業は代返しといたったのに……」
晴樹は、突然にギョッとして目を向いていた。
それはもう、その美しい顔が歪む程の引き吊りようだったので、将人もたじろぐ程だった。
「将人君、一昨日は渡辺とおったやろ?」
「あ、うん。飯食うたけど」
「ご飯だけやなかったやんな?……見えてるで。鎖骨にキスマーク」
晴樹が耳元で囁くように言うと、将人は自らの身体中に残された愛痕を思い出す。
咄嗟に、胸元を掻き寄せた。
「将人君、渡辺の事、好きなん?」
「ちゃう。これはアイツとちゃう」
「そしたら、将人君の相手は、渡辺とちゃう人やて言うんやな?ホンマに?」
「アイツは、結婚するて決めてる彼女がいてるから!昨日は食べた後、別れたし」
「彼女?」
晴樹はクスクスと体を屈めて笑った。
有り得ない、と言いながらしばらくは笑いが止まらなかった。
「将人君、何かと勘違いしてんのとちゃうん?そりゃ、渡辺の仕事繋がりには女もおるやろうけど」
「勘違いちゃうし。ナナはその為に仕事も頑張って……」
「それはないわ。だって、渡辺は完全なるゲイやもん。……それは、僕が一番よう分かってる」
「はぁ?!」
「初めて会うた時から、好みやな~って思うたし、直感でこの人もゲイやろな、って分かってん。……誘うたら、すぐに乗ってくれたし?」
「……何やて?」
「僕と渡辺は、付き合うてるいう事や。そういう意味で」
「そういう意味ってなんやねん」
「渡辺が忙しいっていうのは、僕と過ごしてるからやねん。……言うてる意味、分かるやろ?せやから、その女が云々ていうのは、有り得へんよ。渡辺、僕に夢中やもん」
晴樹が、何を言っているのか分からない。
将人の中で、処理しきれない言葉が脳内を掻き回すようにして混迷させる。
嘘だと口にすれば、晴樹の言葉を肯定し、喜ばすだけのような気がする。
七海は、日菜子の事を晴樹に言っていないのだ。
体の関係があるというのもデマで、将人の動揺を誘っているのかも知れない。
ここで迂闊な事を口にしてはならないと思った。
「将人君には絶対に負けへんから。渡辺は僕のもんやし」
「……そうか」
まだランチが残ってはいたが、それ以上、晴樹と話してはいられなくなって、将人は席を立つ。
将人には、七海の本心が見えなかった。
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