1

1/1
前へ
/4ページ
次へ

1

  水際対策は緩和されたが、羽田空港では乗り継ぎに思いのほか時間がかかった。やっと伊丹空港に到着したユリは、金曜日とは思えないほどがらんとした到着ロビーを見渡して、「ありえない……」と独りつぶやいた。レストランやコンビニの半分は閉まっていて、いつもは満員の椅子がほとんど空いていた。ユリはお土産のいっぱい詰まったスーツケースを転がして、迷わず一番近くのベンチにどっかりと腰を下ろした。携帯電話を取り出すと、すぐさま昨夜来たラインのやり取りを見返した。相手は高校時代からの親友の美穂だ。 「三時に家に来てもらう予定だったけど、五時に変更してもらっていい?」 「もちろん。空港で適当に時間をつぶすから大丈夫」 「バタバタしててごめんな」 「都合が悪ければ遠慮せず言ってよ」  親しき中にも礼儀ありだ。迷惑をかけてはいけないと肝に銘じている。  「みんな、ユリと阪神競馬場に行くのを楽しみにしてる」  ユリと美穂は同じクラスで家も近く、お互い一人っ子だったせいか、とにかく気が合った。二人とも帰宅部だったから、よく学校帰りに美穂の家に寄って、一緒に宿題をしてテレビを見た。ユリはまるで家族の一員のように、時々夕飯までごちそうになった。    美穂の両親は気さくな人柄で、周りを明るくさせる、典型的な関西のオトンとオカンだった。テストの点が悪かったとか、体育の先生に怒られたとか、姉妹のように学校であったことを報告しながら、ユリは全く遠慮することなく彼女の母が作る絶品甘口カレーをお代わりしていたのだから、今思うと顔が赤くなる。両親を事故で一度に亡くし、親戚の家で息をひそめるように暮らしていたユリにとって、美穂の家庭はとても居心地がよかった。今思うと、美穂たちはユリの身の上を思いやってくれたのだろう。  短大を卒業して社会人になり、お互いに彼氏ができても、良い友達関係はずっと続いた。ほぼ同じ時期に結婚してからは、会う頻度は減ったものの、ラインや季節の挨拶のやりとりは続けていた。ある日、ユリは美穂から離婚したと告げられた。彼女は両親のいる実家に戻り、養護教諭として働きながら二人の息子を育てあげた。その子たちももう大学生だ。  ユリの方は、夫の仕事の都合でずっと海外生活が続いていた。年に一度、必ず夫婦で東京にある夫の実家に里帰りするのが習慣だった。だが、何年たっても子供ができず、義理の両親との関係がぎくしゃくした。義理の母が、「関西のどこの馬の骨ともわからない女と結婚したのが間違いだった」と親戚に漏らしていたのを知ったユリは、それ以来実家には近寄らなくなった。唯一の救いは、どんな時も夫がユリの味方でいてくれたことだった。  夫と一緒に日本に帰っても、ユリは関西、夫は関東と、気兼ねすることなく別行動をとった。そんなユリに、美穂は「日本に帰って来たらいつでもうちに泊まりにおいで」と気さくに声をかけた。   ユリが美穂の家に泊まると、彼女は腕によりをかけた夕食でもてなしてくれた。お好み焼きだったり、ちゃんこ鍋だったり、家族みんなの大好物が食卓に並んだ。もちろん甘口絶品カレーもだ。美穂と両親に二人の息子たち、みんなで会えなかった時間を埋めるように、ビール片手に時がたつのも忘れて沢山しゃべった。息子たちのガールフレンドの話題から始まり、野球にサッカー、テレビドラマから芸能ゴシップ、そして最後は決まって競馬の話で盛り上がった。美穂の家は阪神競馬場の近くだから、場所柄、家族はみんな馬が大好きだった。美穂にいたっては、「小さな頃は動物園には馬しかいないと信じて疑わなかった」というのだから可笑しい。やれどの馬の血統が良いだの、有馬記念の枠順が決まっただの、夜が更けるまで時間を忘れて話し込んだ。  今でこそスマホやパソコンで簡単に馬券を購入できるが、場外馬券場や競馬場に直に足を運んで馬券を購入するファンも多い。美穂の父親、「じいじ」もその一人だった。 「どの馬か決めたか? 仁川に行くから馬券買うてきたるで」がじいじの口ぐせだった。  じいじが馬の話をするたびに、ユリは亡くなった父の面影が目に浮かんだ。何を隠そう、ユリの父親も競馬が大好きだった。気が向くと、幼い彼女の手を引いて阪神競馬場に連れて行ってくれた。  英才教育の賜物か、ユリは小学校に上がるころにはすっかり馬の虜になっていた。今はもうなくなってしまったが、かつて甲子園に阪神パークという遊園地があった。ポニーの乗馬コーナーが人気で、ユリは優しい瞳の芦毛の子が気に入っていた。馬の背中から伝わるほんわかとした温もりと、不思議なリズムの揺れが心地よく、何回も乗った。帰りたくないと大泣きしては、よく母親を困らせたものだった。そんな昔の光景が、ふわりと胸の中に蘇った。  パンデミックで三年も日本に帰れない日が来るなんて誰が予測しただろう? 人生何が起こるかわからない。やりたいと思ったことはやっておかないと必ず後悔する。そう痛感したユリは、美穂に「今度みんなで阪神競馬場に行かへん?」と提案してみた。コロナ禍で制限のあるなか、長男が一生懸命入場券を購入してくれたと連絡があった時には、ユリは思わず胸の前で手を合わせた。  三年ぶりに大切な友人とその家族に会える。おまけに明日はみんなで阪神競馬場で一日を過ごすのだ。想像するだけで自然とユリの顔は綻んだ。五時までにはまだ時間がある。リニューアルした空港内でもぶらぶらしようとバッグに手をかけた瞬間、ラインの着信メロディーが鳴った。 「もう家に帰ったから、いつ来てもらってもオッケーだからね」   とぼけた猫の絵文字に思わず噴き出したユリは、急いで立ち上がるとスーツケースを掴んで弾むようにバス乗り場へと向かった。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加