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1章 弘子おばちゃんの憂鬱 第2話 弘子おばちゃんの溜め息
塩味の焼きそばにはお塩も使うが、味を補うために顆粒の鶏がらスープの素と日本酒も使う。
渚沙がフライパンを操る横では、大きなお鍋の中でお湯と糠に浸かった筍がことことと煮えている。1時間茹でて柔らかくし、あとは灰汁を抜くために常温になるまで放置である。
焼きそばの具は豚肉と人参、きゃべつとシンプルである。人参は短冊切りにし、きゃべつはざく切り、豚肉は細切れをそのまま使う。
そうして出来上がった塩焼きそばを2枚のお皿に均等に盛り付け、ダイニングテーブルに置いた。
「竹ちゃん、ご飯やで〜」
「うむカピ」
渚沙の間の抜けた呼び掛けに、竹ちゃんは平然と応えてダイニングチェアにひらりと上がる。ほかほかと湯気を上げる塩焼きそばを前に、竹ちゃんは「ふふん」と鼻を鳴らした。
「いただきますカピ」
「はい。いただきます」
シンプルな塩焼きそばである。強いてコツと言えば、使う茹で中華麺をあらかじめレンジで温めておき、袋の上から軽く揉みほぐして、さらにフライパンに入れた時に日本酒を振ることである。こうすると麺が解れやすくなるのだ。
数年前ダイエットを意識して、最初にお汁物もしくはお野菜を口にするのがくせになっている渚沙は、まずきゃべつと人参を重ねて食べる。そして豚肉、中華麺と順にお箸を運んだ。
お野菜と豚肉の甘みがストレートに感じられる。麺は日本酒のお陰もあってもちもちである。蒸発するので蒸された様になるのだ。塩焼きそばとは言えお塩はそう強くはしておらす、鶏がらスープの旨味がふくよかである。
あまり味を強くしてしまったら、途中で食べ飽きたり、食べるのがしんどくなってしまう。小鉢ほどの量ならともかく、こうしたワンプレートごはんは少し薄味だろうかと思うぐらいでちょうど良いのだ。
「うむ、なかなかのお味だカピ」
「そら良かったわ」
穏やかな時間が流れる。渚沙と竹ちゃんはゆったりと食事を進めて行った。
翌日になり、「さかなし」は営業を始める。
背中の真ん中に届こうかという長さの黒髪は襟足でひとつにまとめ、顎あたりまで伸びた前髪は耳に引っ掛け、濃紺の三角筋で抑える。たこ焼きに髪の毛が落ちてしまったりしない様に、最大限の注意をはらう。
エプロンも三角筋と同じ濃紺である。その下はたいがいTシャツと綿のボトムである。今日のTシャツはシャンパンゴールドカラーだ。
そうして身支度を整え、渚沙はせっせとたこ焼きを焼き、お客さまにお求めいただく。
その間、竹ちゃんは住居エリアでお掃除とお洗濯をしてくれる。本当に恐るべしだと思うのだが、カピ又である竹ちゃんは、人間ができることなら大概できてしまうのだそうだ。
普段は仔カピバラサイズの竹ちゃんだが、家事をしてくれる時は大人サイズになるのだ。休日には一緒に家事をするので、初めて見た時には驚いたものである。
竹ちゃんが家に来た当初、ひとり暮らしをしていた時と同様、家事は全て渚沙がしていた。竹ちゃんはそれを見て、やり方を覚えたと言うのだ。
まさかあやかしとは言え、カピバラが家事なんて芸当ができるだなんて思いもしなかった。だが手伝うと申し出てくれるのなら、ありがたくお願いすることにしたのだ。
お陰で渚沙の生活はかなり楽になった。竹ちゃんはやたらと賢いカピバラだったのである。
そんなわけで家のことは竹ちゃんにお任せし、渚沙は「さかなし」に専念する。
木曜日、平日の今日は週末よりお客さまは少ない。それでもできあがりを置いておかなければお客さまにすぐにお渡しできないので、最低でも最大個数の10個は作っておく。
しかしうまいもので、新しく焼き始めるとお客さまが来てくださったりするのである。今来てくださったのは中年のふくよかな女性だった。お昼前という時間帯的に、お昼ごはんにされるのだろうか。
「8個ちょうだい。焼きたてがええわ」
「今焼いてますんで、少しお待ちいただけたら」
「ほな待つわ。なんや、なんか椅子かなんか無いんかい」
「あ、失礼しました。今出しますね」
渚沙は焼いている最中のたこ焼きの状態を確かめてから、客席の方に行き、補充用の木製の丸椅子をひとつ外に出した。通行人の邪魔にならない様に、お店の外壁に沿わせて置く。
「こちら、使うてください」
「ふん」
女性はお礼を言うことも無く、小さな不機嫌を滲ませながらどっかりとその椅子に腰を降ろした。
こうした傲慢とも言えてしまうお客さまは珍しく無い。大阪という土地柄もあるのだろうか。厚かましいとも言える。
「お客さまは神さまです」なんて言葉が一世風靡した時代もあり、今や定着していると言えるだろう。それを言い出したご本人の本意からひとり立ちし、今やそれを盾に店員さんなどに横柄な態度を取るお客さまもいる。
渚沙が客の立場になれば「なんやそれ」と思うのだが、こうして店員側の立場になった時点で、結局は気にしないことがいちばんなのだと解っている。
あまりにも目に余る様なら毅然と対応しなければならないが、これぐらいなら何てこと無い。幸い、今のところ渚沙の堪忍袋の緒が切れたことは無い。できるならこれからもそうであって欲しいと願う。
渚沙は焼き上がりつつあるたこ焼きを、ピックでくるくると回した。
15時近く、おやつの時間になるころ。
「まいど」とお顔を見せてくれたのは弘子おばちゃんだった。今日は前面にヒョウの顔がプリントされた迫力のあるチュニックである。
最近はヒョウ柄のおばちゃんは減りつつあると聞く。それは何とも寂しいことだとも思うが、大阪の一部ギャルがヒョウ柄を好んでくれているらしいと聞き、大阪女性のDNAは脈々と引き継がれているものなのだなとしみじみ感じる。
「6個をいつものポン酢マヨでな。また食べてくからビールもちょうだい。ドライな」
「はぁい。弘子おばちゃんいつもありがとう。グラス使います?」
「あ、いらんいらん」
弘子おばちゃんは手をひらひらと振りながら店内に入って行く。焼き上がっているたこ焼きがあるので、渚沙は舟皿に手際良く盛り付け、旭ポン酢を塗ってマヨネーズを掛ける。かつお節と青のりを振って、アサヒスーパードライとともに弘子おばちゃんに運んだ。
「はい、お待ちどうさんです」
「ん、ありがとう」
渚沙はまた鉄板の前に戻る。そこは通りに面しているから、そう通行人が多く無い外の通りも見えるわけだが、店内に目を配れる様にそちら側も広く開いている。
今は弘子おばちゃんの他にお客さまはいないので、渚沙は横目で店内を見ながらたこ焼きを見て行く。そろそろ新しいのを焼くかと、鉄板に米油を引いてたこの角切りを落とした。
するとその時、店内に「はぁ〜」と大きな溜め息が響いた。
渚沙でも無ければ、上にいる竹ちゃんでも無い。となるとその主は弘子おばちゃんになる。
ついさっきも溜め息が上がったのだが、それは缶ビールを飲んだ時の爽快なものだった。だが今回は、どうにも憂鬱そうな気配が孕んでいる様に思えた。
鉄板は生地を流して天かすと青ねぎ、紅しょうがを振ったところである。少しぐらいなら放置しても問題無い。渚沙は店内に意識を向けた。
するとまた大きな溜め息をひとつ。何か心配事でもあるのだろうか。
「なぁ、渚沙ちゃん」
弘子おばちゃんの少し沈んだ様な声が、渚沙の耳に届く。いつも快活な弘子おばちゃんなのに、珍しい。
「はい?」
「紗江子さんてさ、お嫁さん、えっと、渚沙ちゃんのお母さんと、仲良かったか?」
紗江子とは、渚沙のお祖母ちゃんの名前である。弘子おばちゃんの質問の意図が判らず、渚沙は首を傾げつつも「そうですねぇ」と口を開いた。
「良かった方やと思いますよ。お互いに巧いことやっとったと思いますけど」
お祖母ちゃんとお母さんの本心までは判らないが、少なくとも渚沙の目にはそう見えていた。とは言えふたりとも裏表の無い性格なので、きっと見えていたままなのだろう。
「別居やったっけ」
「そうですよ」
「やっぱり、同居せぇへん方が良かったんやろか」
弘子おばちゃんはそうぽつりと漏らし、また溜め息を吐いた。
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