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第37話 桜の下
沙苗が目が覚めると、木霊たちがわらわらと集まってくる。
「みんなぁ、おはよぉ……」
彼らの頭を優しく撫でながら、眠い目を擦りながら起き上がった。
「おはよう、沙苗」
「! お、おはようございます、景虎様」
景虎と一つの部屋で布団を並べて眠るようになってからおよそ一ヶ月が経とうとしているが、いまだにこうして声をかけられることには馴れない。
なぜか景虎は、沙苗が何時に起きても、いつも一足早く目を覚ましているのだ。
「景虎様、ちゃんと眠っておられますか?」
「当然だ。どうして?」
「いつも私よりも早く起きているようなので……寝不足になっていないのか、心配なんです」
「安心しろ。お前より少し早めに目が覚めてしまうだけだ」
「お仕事のほうは?」
「明日から、だな。まったく……
景虎は不満そうだ。
「お嫌なのですか?」
「都の人々を守ることが嫌なんじゃない。お前を残すことが心配なんだ」
「……使用人を雇うとこの間、仰っていらっしゃいましたよね……?」
「また前回のようなことはあっては困るからな。それに、お前も広い屋敷に一人でいるより、誰かが一緒にいたほうがいいだろう」
「はい」
景虎が優しく微笑みかけてくれる。
「昼頃、出かけないか?」
「いいですね。温かくなってきましたし、お出かけ日和だと思います。あ、お弁当を作りましょうか」
「頼む」
沙苗は布団から出た。
「どこへ行く?」
「朝食の支度です。できましたらお呼びいたしますので、休んでいてくださいね」
沙苗は頭をさげ、別室に移動して着替える。
そして着物に着替えて廊下に出ると、すっかり浴衣から着物に着替えた景虎がほとんど同時に出てくる。
「休んでいてくださいと言ったのに……」
「眠たくもないのに眠る必要はないだろう。それに、家にいる時は、可能なかぎりお前を守っていたい」
「……わ、分かりました」
景虎の優しさがくすぐったい。
――仕事がはじまったら、こういうこともなくなるのよね。……なくなったらなくなったで、景虎様がいてくれないことが寂しくなるんだから。
朝食と、お弁当の用意をする。
食事を終えて少し腹ごなしをし、昼時になったら景虎の運転で出かけた。
沙苗は膝に包んだお弁当をのせながら、春の風が髪を撫でるのを感じる。
長い冬が終わり、温かな日射しと風が、次の季節を帝都へもたらす。
街も鮮やかさを増しているような気がした。
そこは、いつかやってきた河川敷。
「あ……!」
桜の並木が、桃色や白の大輪の花びらを咲かせていた。
「こ、これ、桜ですよね!?」
沙苗は大きな声をあげてはしゃいでしまう。
これがずっと、木霊たちから話に聞いていた桜。
――なんて綺麗なんだろう!
まるでピンク色の雲だ。ふかふかしてそうで、夢の世界に迷い込んだと錯覚してしまいそうになる。
あまりのうれしさに胸が熱くなった。
「景虎様、見て下さい! 綺麗ですよ!」
「ああ、見えてる」
「……す、すみません。はしゃいでしまって」
景虎に苦笑され、耳まで熱くして身を縮こまらせる。
「いや、それだけ喜んでくれるのなら、来た甲斐があった」
景虎は路肩に自動車を止めると、下りた。
風が吹き、桜の花びらが吹き散らされる。見事な花吹雪に、沙苗はますます目を輝かせた。
花びらで川が桃色に染まっている。
景虎が少し前を行き、体が触れあわないよう細心の注意を払いながら土手を歩く。
沙苗たち以外にも大勢の人々が、見事な桜並木を目当てに集まっている。
世界はこんなにも色で溢れている。
――はじめて桜を見られたのが、景虎様と一緒の時で良かった。
桃色の花びらの舞い散る下、景虎が桜の木を見上げる。
「このあたりで食事にしよう」
景虎は少し大きめの手巾を取り出すと、土手に敷く。
「あ、ありがとうございます」
包みを開き、お弁当を食べる。
特別でもなんでもないありきたりの料理だけど、景虎と一緒に食べているだけで胸がいっぱいになる。
沙苗と景虎の関係が仮初めだったとしても、こうして過ごす時間は偽りではない。
舞い落ちた花びらが、景虎の髪にくっつく。
「景虎様、髪に……」
「そうか」
景虎は髪に付いた花びらをそっと取り、それから沙苗を見つめる。
「お前の頭にもついている」
「あ、本当ですね」
景虎が教えてくれた場所に手をやると、しっとりとみずみずしい花びらをつまんだ。
辺りを見回すと、夫婦や恋人どうしだろうか、そこかしこで沙苗たちと同じように花見を楽しんでいる.。
彼らは体を触れあわせ、手を繋いでいる。
沙苗と景虎の間にある距離を客観的に見れば、仲睦まじいとは思えないかもしれない。
でもこの距離こそ、沙苗と景虎が互いを想いやっている証。
沙苗は景虎を仰ぎ、その美しい顔立ちは柔らかく緩んでいる姿をしっかり目に焼き付ける。
「どうかしたか?」
「景虎様。私、とても幸せです」
景虎ははっとし、それから微笑んでくれる。
「沙苗が幸せなら、俺は嬉しい」
二人は笑みをかわした。
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