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彼の視線が、ずっと私に付きまとう。
家にいる時も、仕事をしている時も、買い物をしている時も、友達と会っている時も。一日中ずっと、ずっと私にまとわりつく。痛いくらい、鋭い視線。
それを感じながら、私は思う。
ああ、彼が側にいると。彼は、今日もずっと私の側にいると。
「今日はお天気いいね」
「洗濯日和だね」
「あ、コップ割っちゃったの?」
「明日、帰りに新しいの買って来るよ」
「ともちゃん、彼氏ができて嬉しそうだったね」
「幸せになれるといいね」
あの苦しくて悲しかった日々が嘘のように、楽しくて穏やかな時間が過ぎてゆく。朝の満員電車も、小言ばかりのお局様も、調子のいい後輩も、セクハラまがいの上司も。彼が側にいてくれるから、我慢できる。暗い部屋に一人帰る寂しさも、彼がいるから平気になった。
私と彼は、一生一緒だ。あの時の選択は間違っていなかった。だって今、こんなにも幸せだから。
そして今日も、彼は私の側にいる。
「おはよう」
朝起きて、
「やだぁ、寝ぐせが直んない」
身支度をして、
「あ、この前奮発したジャム美味しい」
朝食を食べて、
「そろそろ出なきゃ。遅刻しちゃう」
歯を磨いて、身だしなみのチェックを終わらせる。もちろん、その間も彼の視線は私から離れない。
「じゃあ、行こうか」
ジャケットとバッグを手に取った時、チャイムが鳴った。こんな朝から、誰だろう?
どうせ出るんだし、インターホンを確認するのも面倒だ。私はそのまま玄関へ向かい、扉を開けた。
「はい?」
顔を出すと、そこにはスーツ姿の二人の男性を先頭に、たくさんの人が立っていた。先頭の一人は三十代、もう一人は二十代くらい。三十代の男性が、すっと手帳を掲げた。
「おはようございます。朝早くからすみません。京都府警の紺野と申します。小山敦さんの件で……」
紺野と名乗った刑事さんは手帳を内ポケットにしまいながら、ふと、私の後ろへ視線を投げて目を丸くした。
ああ、この人――。
「どうかしましたか?」
私がにっこり笑うと、刑事さんは気を取り直すように「失礼しました」と言いながら手帳をしまい、今度は一枚の紙を取り出した。丁寧に開いて、私に向ける。
「小山敦さん殺害の容疑で、逮捕状が出ています。署までご同行を」
同棲生活を堪能したくて、ずいぶん気を使ったつもりなんだけどな。日本の警察はやっぱり優秀なんだ。あれから一カ月も経っていないのに。でも構わない。
「はい」
笑顔を崩さずに、私は頷く。
だって、拒否する理由なんてどこにもない。何をしていても、どこに行っても彼は私の側にいる。彼が側にいる限り――この視線を感じる限り、私は幸せだから。
ほら、今もここに。
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