第二章 すみれの谷

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第二章 すみれの谷

 蘇生魔術師のルーシーは、すみれの谷に来ていた。 「あー、眠い……」  冬の晴れ間の陽光は暖かく、ルーシーはぼんやりと馬車馬の手綱を握っていた。 「うわあっ」 「え?」  ルーシーはぼんやりと馬車を止めた。 「いてて……」  前を見ると、青年が見事にひっくり返り、道に野菜をばらまいていた。 「ペアゾル、見てきて」  青年が顔を上げると、目の前に絶世の美女がいた。  こうして、青年は不毛な恋に落ちてしまったのである。   「なんか悪いね。こっちがケガさせたのに逆にごちそうさせちゃって」  ルーシーはカケラも悪びれることなく、鶏肉の照り焼きやら揚げ芋やらを胃袋に収めていく。 「いえいえ! むしろ、よそ見していたのは俺ですし! で、お名前は……?」 「僕はルーシー。こっちはペアゾル。覚えなくていいよ」 「なるほど、ペアゾルさんですか……!」 「すがすがしいほどわかりやすいね君は」  ルーシーは今回のようなことに慣れていた。  見目麗しすぎる自分の護衛は、相手を不毛な恋路に陥れやすかった。  ペアゾルは先ほどから、紅茶を一口飲んだだけで、おとなしく座っている。  ーーように見えるが、絶えずあたりに気を配っていた。  ーーまあ、どうせ今回も振られるだけだろうから、そのままにしておこう。  その読みが甘かったことを。  ルーシーは後に後悔することになる。  すみれの谷には、一週間滞在する予定だった。  穏やかな田舎は、ルーシーをいつもより寛大にさせた。 「ペアゾル、いつも僕に付きっきりじゃ疲れるでしょ。しばらく別行動にしよう」  ペアゾルは、コクリ、とうなづいただけだった。  ルーシーは、ステッキをコツコツと言わせながら、村の様子を見て回る。  ーー金持ちそうな家がところどころにはあるな。  ルーシーは花や植物に興味がなかった。  もし関心が少しでもあったなら、その名にふさわしい見事なすみれの群生地や、村の花壇の素晴らしさに目を奪われていたことだろう。  一通り村を見て回って、宿に帰る。  ペアゾルは、夕食時には帰ってきた。 「やけに遅かったね」 「申し訳ありません」 「いいよ。こんな村では危険もないだろうし」  ペアゾル。ルーシーの護衛であり、人形であり、恋人でもある。  そのペアゾルが、ルーシーの目を見ない。  ーーふうん。  面白いことになってきた、とルーシーは心の中で笑った。  二日目。ペアゾルを送りだしたルーシーは、こっそり彼女の後を追った。  気配を消す魔法を使うという徹底ぶりである。そうしなければ、すぐにバレる。  思った通り、ペアゾルは馬車にぶつかった青年と会っていた。無表情だが、会話には応じている。  ーーあーあ。僕だけの人形だと思っていたのに。  青年は心底楽しそうに話している。二人の様子はまるで初々しい恋人同士そのものだ。  ルーシーは、黙ってその場を去った。  五日目。もはやペアゾルは、恋の虜だった。  ルーシーの前では無表情を通していたが、青年の前では笑うようにまでなっていた。  元が冷たい印象を与えるだけに、笑うと大輪の花が咲きこぼれたようだった。  ルーシーは黙って、二人の様子を見ていた。  六日目の夜、ルーシーはペアゾルに対して言った。 「僕と旅を続ける気ある?」  と。ペアゾルはうつむいて、答えなかった。  七日目、ルーシーは、なぜか二人で青年の元へ行こう、とペアゾルに言った。  青年の家のドアをノックする。  すると、青年が、なぜか気まずそうな顔で出てきた。 「あなた、どうかした?」  ルーシーの前では無口なペアゾルが、心配そうな声色で青年に尋ねた。 「ペアゾル、許してくれ」  青年の後ろには、赤毛の大人しそうな女がいた。 「奇跡が起きたんだ。死んだはずの妻が帰ってきた」  ペアゾルは、ルーシーを振り返った。  ルーシーは、悪びれることなく笑顔でいる。 「それでも……、私を選んでくれるわよね?」  ペアゾルは男に懇願した。  青年は黙って首を横に振った。  馬車は、すみれの谷を去っていく。 「いやあ、残念だったねえ。恋人の奥さんがたまたま戻ってきて」 「あなたしか、蘇生魔術はできない」 「だって、君は僕のお人形だって決めたから」  夕日が山脈に沈もうとしている。 「一生手放さないって決めたんだよ」
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