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小学校に入学してから、泰彦は、ある洋館風の家の前を通るようになった。
登校する時、その家の2階から、いつも綺麗な笛の音が聞こえてきていた。
楽器の種類までは分からなかったけど、あとでフルートだと知った。
桜の花びらが舞う朝靄に、三拍子のメロディーが溶け込むように流れていた。
「ヤス、早くしろよ!」
いつも立ち止まって聞き入ってしまう泰彦は、登校班のリーダーに叱られ、後ろ髪を引かれる思いで歩き出す。
けど、耳だけは必死に背後に流れる旋律を追っていた。それぐらい、なぜか泰彦にとっては、魂を揺さぶられるような音だった。
*
泰彦は、音楽の時間が一番好きだった。
洋館の笛の音のこともあるが、優しかった母を思い出すから。
物ごころ付くか付かないかの頃。母は、よく泰彦の手をつないで、お散歩につれていってくれた。
家の裏手の、みかん畑の広がる小高い山。
軽トラックがやっと通れるくらいの細い農道からは、太平洋がせいせいと見渡せた。
♪みかんの花が 咲いている
思い出の道 丘の道……
(作詞・加藤省吾 作曲・海沼實)
母は、必ずと言っていいほど、この童謡を歌ってくれた。透き通るような声だった。
「この歌を歌ってると、故郷を思い出すのよ」
泰彦がもうすぐ小学校に入学という頃、母が眩しそうに遠くの海を見ながらそう言った。
山のてっぺんまで登り、二人とも疲れて、脇の土の上に並んで座った時のこと。
「故郷って?」
「ん?故郷?お母さんが生まれた場所のことよ」
「それくらい、僕にも分かるよ。そうじゃなくて、お母さんの故郷はどこ?って聞いたの」
背伸びをしたくなる年頃。少しふくれて見せながらそう訊くと、母は優しい笑顔を泰彦に向け、
「ごめんごめん。静岡県の伊東っていう所」
「伊東?」
今度は分からない。浮かぶのは、『イトウ』という保育園の友だちの顔だけ。チンプンカンプンな表情の泰彦に、
「そこの国府津の駅から電車に乗って、1時間ぐらいの所」
そう言う母の視線の先には、微かな伊豆半島の姿。
その目が寂しそうだと、子供心に思ったことを、今でも覚えている。
母との散歩の記憶は、それが最後だった。
小学校入学を目前にして、母は泰彦の前から突然いなくなってしまったのだ。
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