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「私、この歌好き!」
電車が去った後で、彼女が言った。
「俺も!」
「ホントに?嬉しい!」
彼女の笑顔が、目前の海のように輝く。
泰彦も自然と笑顔が弾ける。彼女に対して、すっかり気を遣わなくなっていた。すると彼女が、
「ねぇ、名前、なんていうの?」
と小首を傾げた。そうだ。まだお互いの名前を知らない。
「俺、小沢泰彦」
改めて名前を伝えるのは、なぜかちょっと気恥ずかしくて、ぶっきら棒になる。相手の名前を訊くのはもっと恥かしくて、
「……君は?」
声が小さくなる。彼女は待ってましたとばかりに、
「私は、宮野涼香」
と答え、笑顔のまま続けざまに、
「じゃあ、泰彦くんでいいよね?」
と訊いてきた。
(えっ、いきなり?)
大人しい泰彦は、女の子から下の名前で呼ばれたことなどない。
でも、涼香は積極的、というより、自然な感じに、
「私のこと、涼香でいいよ」
と言った。
「えー、それは……」
「あっ、いきなり呼び捨ては無理か」
(いや、そこじゃなくって……下の名前で呼ぶの?)
「じゃ、涼香ちゃんでお願いね!」
泰彦の心知らずにそう言って、ニッコリ笑った。
もうそう呼ぶしかないと覚悟を決めた泰彦は、それならすぐに呼んで慣れてしまえとばかりに、
「涼香ちゃんは、今、何年?」
と質問した。実際、知りたかったことだった。
「中学1年だよ」
「そうなの?じゃあ、K中?」
涼香は首を振って、
「私、O女子学園に通ってるの」
と、市街地にある小中高一貫の私学の名前を言った。
(どうりで、一度も見かけなかったわけだ)
と合点した勢いのまま、もうひとつ気になっていたことを訊く。
「あと、涼香ちゃんちから時々笛の音がするけど、あれ、涼香ちゃん、だよね?」
彼女は、返事をする代わりに「ぷっ」と吹き出した。
「えっ、なんだよ」
笑われた恥かしさで下を向くと、
「ごめん。分かんないよね。あれ、フルートなの」
「フルート?」
「そう」
彼女は頷いて、空で演奏する真似をしてみせた。
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