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4
涼香は、生まれて小学校に入る前まで、伊東市内、正確には伊豆高原駅近くのアパートで過ごした。
両親は共働きだったが、コロナ禍で仕事を失い、職を求めて神奈川県内に出てきた。
結果、父親は無事に都内の会社に再就職でき、中古で今の家も手に入れたのだと、涼香は言った。
「じゃあ、今はお母さん、ずっと家にいるの?」
(いいなぁ)
そんな気持ちで泰彦は言ったのだが、涼香は固く口を結んで小さく首を振った。
「えっ?じゃあ、お母さんも働いてるの?」
またしても首を振って、
「いないよ」
ちょっと寂しげな微笑を見せる。
「いない……?」
意味がつかめない泰彦が、涼香の顔を見つめたままでいると、彼女が
「伊豆高原で、絵の先生をやってるの」
と言って、海の向こうに視線を投げた。
「絵の先生?」
「そう。大人の人向けの絵の教室。元々お母さんの両親がやっていて。お母さん、伊豆高原の高校出てから、そのお手伝いをしてたの」
「うん」
「コロナで一旦閉めたんだけど、この春から再開して。だから、今はいないの」
「……そうなんだ」
なんて言っていいのか分からなくて沈黙していると、涼香が明るいトーンの声になって、
「お父さんとお母さん、そこで知り合って結婚したんだよ」
「えっ、そうなの?」
興味をそそられた泰彦が、身を乗り出す。
「うん。たまたま休暇で近くに泊まりに来てたお父さんが、絵の体験教室に参加したのがきっかけだったって、お母さん話してた」
「へぇ、すげぇ。運命みたい」
「そう、ホント、運命だよね」
涼香も頷いて、その後の話を続けた。
あっという間に結婚まで決まり、父親はそれまで勤めていた会社を辞め、伊豆高原に移住。地元の観光会社に再就職した。
ほどなく涼香が生まれ、順風満帆に見えた生活だったのだが……
「コロナでおかしくなっちゃった」
と、涼香は視線を落とした。
仕方なく、家族3人で今の家に越してきて、やっと落ち着いた頃に、コロナもようやく下火に。
すると今度は、元いた絵の教室の生徒たちから再開を望む声が相次ぐようになった。
「お母さん、元々絵の先生続けたかったからね。それに、向こうに残してきた両親のこともあるし……」
それで、今は母だけ伊豆高原に戻り、別々に暮らしているのだと、涼香は言った。
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