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「そうなんだ……寂しいじゃん」
自然にそんな言葉が出る。お母さんがいない気持ちが、すごく分かるから。
涼香は哀しげな微笑を泰彦に向け、
「泰彦くんのお母さんは?働いてるの?」
と訊いてきた。
「俺もいないよ」
「えっ?」
意外だというような目になる。泰彦は続けて、
「病気で入院してるんだ」
「……そうなんだ」
「うん。お父さんがそう言ってた」
「そっか……お見舞いとかは?行ってるんでしょう?」
「行ってない」
「なんで?」
「理由があって、行けないんだって、お父さんが言ってるから。それに、どこの病院かも分かんないし」
「ふぅん……」
何かを考えるような目で、遠く霞む伊豆半島を眺める涼香。
と、また電車が入ってきた。
ドアが開き、『みかんの花咲く丘』が流れる。
しかし涼香は、伊豆半島を見たまま、じっと聴いているように見えた。
そして、電車が去った後でぽつりと言った。
「あの歌、この町にも伊東にも縁があるんだよ……」
「えっ……そうなの?」
「うん。まずね、伊東をイメージした童謡を書いてほしいと頼まれた加藤省吾さんっていう人が、みかんの花をモチーフにして詞を書いたの」
「うん」
「その後でね、作詞を依頼した海沼實さんっていう作曲家が、伊東に向かう途中の電車の窓から国府津のみかん畑を見て、曲を思いついたんだって」
「へぇ……」
「だから、縁があるの……」
その後に、『私たちも』そんな言葉が続いているように、泰彦には聞こえた。
と、かすかに甘いジャスミンに似た匂いがした。
海から吹いていた風が、いつの間にか山から吹き下りる風に変わっていた。
「帰ろっか」
涼香が言った。
もっと一緒にいたかったが、
「うん。寒いし」
と合わせた。
涼香の家の前に着くまで、ほとんど話をしなかった。
別れしなになって、彼女が寂しそうな微笑を向ける。
「ごめんね、今日は。急に誘っちゃって」
泰彦は、首を横に振って、
「楽しかったから、いいよ」
「ありがとう。私もだよ」
そこでまた沈黙が流れる。
別れ難いのに、言葉が出ない。
と、涼香が思いついたように訊いてきた。
「よかったら、泰彦くんちの住所、教えてくれる?」
「えっ……いいよ。K町××……」
泰彦が伝えると、涼香は嬉しそうに、
「分かった。ありがとう。またね」
彼女は爽やかに手を振って、家の中に消えていった。
(またね、か……また会えるかな)
家への帰り道を歩きながら、今日の涼香とのことを思い返していた。
(住所訊かれたし、また会えるよな、きっと……会いたいな……)
最後に嗅いだみかんの花の香りが涼香と結びついて、彼女の印象になっていく。
胸がドキドキして、締め付けられる。
小学4年の泰彦は意識していなかったが、これが『初恋』だった。
ゴールデンウイークが終わり、日常が戻っていった。
朝の通学の時、たまに涼香のフルートを聞いた。
けど、休みの日に彼女の家の前に行くことは、もうしなかった。と言うより、行けなかった。
行きたい気持ちは高まるばかり。けど、同じぐらいに、してはいけないことのような気がしたから。
そのまま、夏休みに入った。
そして間もなく、泰彦は、涼香と伊豆への小旅行をすることになる。
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