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嫌われ者の朝
「あの、お父さんもう会社行くよ?」
申し訳無さそうな声。
ちょっと、待ってよ。
今、我慢しているところ。
私はベッドに腰掛けて、右腕と睨み合っていた。一見何もなさそうに見えるけれど、かすかに赤い。小さな丸。ここでかゆみに負けたら、丸一日真っ赤になってしまう。ひどいときは出血して、またかさぶたができる。痒いけど、我慢我慢。
「どうしたの?具合でも悪い?」
「平気。ちょっと髪が絡んでて、ほどいてるだけ」
実際、私の細くてやわらかい髪はとても絡まりやすい。
一人の時間を長く持ちたくて、自分の部屋でもできそうなことは毎朝30分くらいこもってやっている。まあ、そうしなくても、言えばお父さんは一人にしてくれるけど。
「分かった。じゃあいってきます」
私はいってらっしゃい、を言わない。言わなきゃだめだと思ってはいるけど、どうしても口を開くところまでしかできない。
足音が遠のいて、ドアが閉まって、一階から鍵のかかる音がして、車が出ていく音がした。
よし、さっさと済ませよ。じゃないと傷跡が気になって仕方ない。
気持ちは、早めに切り替える。
なるべく無駄な時間は無くしたい。制服は着ているし、カバンの準備も出来ている。そして髪は、絡まっていない。黒のヘアゴムで低めのポニーテールになっている。一階のキッチンにダッシュして、「籠り時間」に決めていた本日の朝食・ベーグルをオーブントースターに入れた。
今日は・・・トマトジュースにしよう。
ベーグルがこんがりするのを待つ間、ジュースをコップ一杯飲む。
そうすれば、少しスッキリしてベーグルがお腹に入りやすいから。
パントリーには、ベーグルの他に食パンやパックご飯、パスタ、シリアルのフルーツ入りや甘くないものなど主食となるものがたくさん置いてある。お父さんが全て私のために買い置きしてくれている。
私の身体は、とても気まぐれなのだ。
あの日から、食事の楽しみを感じさせる舌に、歯に、喉に、胃に、鼻に、変なカバーがついてしまったみたいだった。甘いものは甘ったるい。揚げ物は油臭い。濃厚なものは気持ち悪い。
前は、そんなこと感じなかった。
お父さんとも良く喋っていた。
右腕がかゆくなることもそんなになかった。
名前を呼ばれることに抵抗はなかった。
私が小さな手をのばす、おぼろげな記憶が頭をよぎる。あれさえ無ければ、今の私はもっと幸せだったのかもしれない。
・・・まあ、よく覚えてないけど。3歳なんてそんなもの。
オーブントースターがベーグルの焼き上がりを知らせる。熱々のうちに、なんとか一つ食べきった。
食器を洗って、歯をみがいて、七時に家を出る。
まだ誰も出歩いていない、鳥の鳴き声だけの時間。
ここから大体、2キロ半。ゆっくり歩いて行っても、学校には七時半に着く。
他の生徒たちも来てしまえば、もう騒がしくて気持ちが落ち着けない。
クラスメートとさえ滅多に話さない私は、学校での1人時間というものがとても長くて、でも、私が満足できる「1人時間」というものは、教室に誰もいない時間だ。
休み時間は「みんなで外」のクラスで助かった。おかげで大体の生徒が教室からいなくなるし、数人残ったところで、私と同じ空間にいることが気まずくて「図書室行かない?」とか言って出てくれるから。
さて、とりあえず朝は教室でゆっくり読書でも・・・ん?
もう誰か来ていた。
教室の真ん中の席に座って、じっと動かないでいる。
私が入って来た途端に声上げたりしないよね。
朝、教室に誰か入るたび聞こえる「おはよう」は、私が入ってきた途端にシンと消える。で、私の次に教室に入る人は、「誰が先に入っていくか」と廊下でつつき合っている。それが今の私の扱いだ。
嫌われている、というより、扱い方のわからない人扱いだ。
・・・うーん。
後ろ姿だと、男子だという以外誰だかわからない。
仕方ない。入るか。
私がここでじっとしていると、あの男子以外のクラスメート全員が教室に入れなくなるだろう。
シンとした教室に、ドアを開ける音が響いた。男子がゆっくり振り返る。
「おはよう」
・・・おはよう?
最後に、私に学校で「おはよう」って言ったのは誰だったっけ。
思わず固まっていると、そのままこっちに歩いてきた。
え、おはよう、え・・・ていうか
「誰?」
「・・・え?」
男子が、とてもがっかりした顔をした。
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