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「グゥウ、ヴォウ(四郎、本当に千早に怒られるからね。僕知らないよ)」
◯
ヤレ 小波海で見上げた空が
今宵は桜花の香に染まる
ちょいと見上げりゃ七桜の
主上の御威がとんと咲く
それ ととんと ととんと 華が咲く
日が西の山へと沈み、七桜を十重、二十重と取り囲む提灯に火が灯された。
緋色に照らされた七桜の根本には木製の舞台が置かれ、隊列を為して並んだ太鼓が囃子を響かせた。
舞台の中央には一人の修験族が立ち、太鼓の拍子に合わせて“桜華節”を謡っていた。
千年前、主上が“七桜”を下賜され、華野辺という地名が生まれた辺りに作られたと伝わる謡で、華野辺に住む者なら誰でも口ずさめた。
いよいよ、“大花見の夜”が始まる。
群衆は思い思いに七桜の周囲に陣取ると、夕餉を詰めた重箱やら、立売から買い求めた酒やらを広げた。
多くの者は持ち寄った食べ物をつつきながら、桜華節を口ずさんだり、手拍子を打ったりしていた。
四郎は少し離れた運河にかかる小橋の手摺に腰を下ろし、その様子をぼんやりと眺めていた。
「清正、ここにおったか」
「四郎とお呼びください、父上……何を持ってきたんですか」
忠政は片手に酒壺、片手に自分の背より遥かに長い巻物を抱えて現れた。
「何ってお前、ござがねえと、座りっ辛くて仕方ねえじゃねえか」
そう言いながら、ござは橋の手摺に立てかけて、忠政は四郎の隣に腰を下ろした。
しばし二人で、向こうに見える“七桜”と舞台を眺めたが、忠政が四郎の手元を盗み見た。
「渋茶じゃねえか。お前、飲んでねえのか」
「酒ばかりが花見の楽しみではありませんよ」
四郎が涼しい顔で言うと、忠政が空いた手に猪口を握らせて、縁いっぱいまで酒を注いだ。
「お前は賢しいのが良いところだがな。“大花見の夜”は四の五の言わずに呑むんだよ」
な、と忠政にだめ押しされて、しぶしぶ四郎は猪口を傾けた。酒の香が無遠慮に鼻を通り、冷えているのに熱を帯びた液体が腹の底へ落ちた。
「くっ……」
「祈祷を受けた神酒だ。効くだろう」
酒が通った場所が熱くなり、全身に伝播する。
頭が熱くなって、思考がぼやけていく中で、囃子の音がやけに大きく聞こえた。
いつの間にか、舞台から修験族の姿が消え、その場にいる者達が桜華節の大合唱が起きていた。
謡は次第に拍子が速くなり、それと共に太鼓の感覚が短くなる。
ちょいと見上げりゃ七桜の
主上の御威がとんと咲く
ととんと ととんと 華が咲く
それ ととんと ととんと 華が咲く
そのとき、舞台に一人の巫女が登った。
群衆が歓声を上げ、立っている者は足を踏み鳴らした。
腰まである黒髪に、首元まで隠す黒の襦袢。
その上に羽織った薄絹の貫頭衣は、巫女の体をわずかばかりに隠す。
緋袴の裾からは裸足がくるぶしまで覗いた。
「千早……」
「許婚の晴れ舞台、しっかり見てやれや」
それは四郎の幼馴染の一人、千早だった。
千早は舞台を滑るように歩き、舞台の中央で立ち止まった。
ととんと ととんと 華が咲く
それ ととんと ととんと 華が咲く
それ ととんと ととんと 華が咲く
群衆の謡う“桜華節”が最後の一節を繰り返し、盛り上がりが最高潮に達したとき、千早が足を上げ、木造の舞台を踏み鳴らした。
たった一人の足拍子が、それまで轟いていた何十もの太鼓よりはっきり、だん、と響いた。
その途端、“七桜”の周りは息継ぎ一つ聞こえない静寂が支配した。
四郎は視界が明るくなる錯覚がした。
それは、千早の背後に鎮座する“七桜”が、すべての蕾を開かせた証だった。
千早はただ一人、舞台の上を踊った。
貫頭衣を風に泳がせて、長い髪を空に広げて、足拍子で舞台を楽器に変えて。
その度に“七桜”は夜を昼へ変えんとばかりに輝き、やがて大量の花弁を踊らせた。
観衆が歓声を上げ、割れんばかりの拍手を送った。
「初めて見ました。これが、満開の“七桜”……」
「そうだ。始まるぞ、“大花見の夜”が」
そのとき、忠政が驚くほど険しい顔に変わっていたが、四郎は別のことに気を取られていた。
最初は、風雨のごとく舞う花弁のせいだと思った。
しぶしぶ飲んだ神酒のせいだとも思った。
だが、目をこすっても見間違いではなかった。
千早が舞う、その背後で、七桜の姿が揺らいでいた。
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