タカムラ見聞記 米騒動

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 こんな折、大坂城からは将軍家茂の危篤が伝えられている。この報を聞いたタカムラは、急いで大坂城に向かった。古来、難波と聞いている地名が、大坂と変わり、その地に建つ巨大な城郭には威嚇さえ感じさせられた。そんな城の城閣の一つに将軍の寝所を見つけた。寝所の周りには数人の医師が控え、陪臣や奥女中が諦念の面持ちで寝所を眺めている。タカムラは、そんな様子を伺っていると、今まさに冥界へ旅立とうとする家茂の霊魂との対面が叶った。閻魔庁の朝服の姿で端座しているタカムラに、家茂が不審そうな素振りを見せて声を掛けてきた。 「そちは、都の公家とは思えぬが、如何なる者か」 「我は、冥界の閻魔庁で閻魔大王に仕える小野篁と申す。往古、平安初期には朝廷で参議を勤めておった者でもある」 「おー、昼は朝廷に仕え、夜は閻魔大王に仕えたと言われるお人か」 「左様にございます」 「ならば、余を冥界へ迎えるために参ったのか」 「そういうことになろうが、ことの次第によっては押し止めてもよいが」 「ほう、ことの次第とは」 「それは政(まつりごと)の有り様かと」 「政(まつりごと)の有り様とは、如何なることか」  家茂が、タカムラの前に相対して座した。それを見てタカムラは、話を続けた。 「古来、日の本の政は万世一系の皇統の下に執り行われていた。然りながら、それは万全に続くことでは無く、臣下となる公家の勢力に引き込まれることが多々起こるようになった。されど、公家においても権に甘えておると、武という力を持った者どもに足下を掬われてしまい、武士と呼ばれる者どもの世になってしまった。その世の内実は、戦が止むことが無く、漸く江戸幕府を開いたそなたの先祖が和をもたらすことになっている。なれどその幕府も代を重ねるにつれて、権に溺れる者が多くなり、民人に思いを致す者が見当たらなくなっておる。そこで、政の有り様をそなたに問いたいのじゃが」 「政とは、天下の有るべき姿を示し、それに沿った意志を執行するものと考えておる」 「まさにしかり。されど有るべき姿とは、幕府の権によって藩と民人を押さえ込むことではないのか」  家茂が頭を下げて沈思している。タカムラは、政争の末に僅か十三歳で将軍に祭り上げられ、いまだ二十一歳の若者の姿を見ている。この若者が、綻びが目立つ今の幕府の者どもを率い、今の動乱の世を乗り切れるとは到底思えなかった。 「先に言われた万世一系の皇統である朝廷に弓引く者は、征討せねばなるまい」  顔を上げた家茂が、叫ぶかのような声を上げている。 「まさに左様かと。なれど驕り高ぶった今の幕府の有様を伺うと、それは出来ることなのか」  既に、敗戦のことを聞かされている家茂が、押し黙った。 「幕府の内実は頽廃し、今や長州のみにても歯が立たぬ始末になっておるではないか。いつの世も権に驕り、武に委ねる者は、いずれ滅びるのが常じゃ。弱き者、即ち万民に思いを致す治世こそ、万全の政と思うが」 「なれば、余にどうせよと」 「ただちに長州より兵を退き、それに・・・・・」 「それにとは、どういうことか」 「それは、江戸幕府を解体することじゃ」 「何を言う。家康公が苦心の末に戦乱の世を正し、築いた幕府を崩すなどと。数多の家臣を如何する」 「家臣を案じるより、今の世とそこに苦しむ民人を如何にするかではないのか」 「しかし、このままでは江戸に残る家臣や幕府に従う藩の者が戦を起し兼ねない。さすれば、戦乱の世に戻ってしまうことになる」 「されど、それを止めるのは、そなたではないのか」  ここで、押し黙った家茂が黙考している。一刻(三十分)ほども過ぎたのか、無言で立ち上がった家茂が、項を垂れてタカムラの横を通り過ぎ、霧中へと続く道を進んで行った。  寝所を見ると、慌ただしく動く医師たちの姿があり、慟哭と涙声が入り混じった声が響いていた。それは、慶応二年(一八六六年)七月二十日であった。  この後、家茂の遺骸は江戸に移され、芝の増上寺に埋葬されている。更に、攘夷を幕府に命じた天皇も年末に崩御された。
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