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買い出しを終えて、店に帰りつくと、中からは話し声が聞こえた。片方は翡翠の声だ。店のドアにはcloseの文字。緑風堂は既に閉店している。けれど、もう片方は、閉店後だったとしてもここにいてもおかしくない人物だ。ただ、燈にとっては正直今はいてほしくない相手だった。
一瞬。ドアを開けるのを躊躇う。
しかし、きっと、中にいる二人には、ドアの外に燈がいることは分かってしまっているだろう。燈だって、本気でここにいることを隠そうなんて思ってはいなかった。だから、思い直してドアに手をかける。
からん。
と、ドアベルの音。中は温かい。
「ただいま」
まるで、自分の家のような言い草で店内に入ると、二人分の笑顔が燈を迎えた。
「あーちゃん。おかえり」
子犬のような笑顔を浮かべるのは、この家の住人。鏑木紅二。女神川学園高校特殊戦闘科1年。燈の後輩にして、幼馴染だ。燈の祖父が、スレイヤーだった母を早くに亡くした紅二の後継人だったこともあって、本当の兄弟のように育った。
人懐こくて、明るくて、優しい紅二。少年時代は何も考えずにまるで、子犬が二匹じゃれ合うように一緒に遊んでいた。
それが、変わってしまったのはいつからだろうか。
「あーちゃん。やめろ」
つい、キツイ言い方をしてしまって、しまったと思う。
「えー。学校じゃないんだからいいじゃん」
けれど、紅二は全く気にする様子もなく答える。紅二は昔からこうだ。
「お前、学校でもそう呼ぶだろうが。先輩なんだから敬え」
本当は、別に紅二に『あーちゃん』と呼ばれるのが嫌なわけではない。ただ、そう呼ばれると、幼い頃のまま、何も変われていない気がして気持ちが沈む。
「敬ってるよ? 尊敬してます」
ここ数年で、紅二は驚くほどに変わった。背丈も抜かれたし、肩幅も、胸の厚みも、腕の太さも、何も敵わなくなってしまった。声も低くなって、顔つきも男らしくなった。その上、スレイヤーという仕事や将来にに対する考え方も驚くほどに大人びた。それが、親に依存している自分との違いを見せつけられているようで、置いてけぼりをくらっているようで、せめてもの抵抗と先輩面したかったのかもしれない。
「けど、あーちゃんはあーちゃんじゃん」
そのくせ、燈と話すとき。紅二は昔のままの笑顔だった。
子犬のような屈託ない笑顔。ほかの人と話すときとは違う、明らかにリラックスしている表情。嬉しい反面、何も意識されていない子供の頃のままなのだと、少し胸が痛む。
「うっさい。燈さんって呼べ」
「けち」
そこで、はた。と、気付く。翡翠は二人の様子を目を細めて見ていた。
「燈おかえり。ご苦労様」
くしゃ。と、翡翠の手が燈の頭を撫でる。
なんだか、素直になりなさい。と、言われているような気がした。『わかっているよ』と、心の中で返事をする。翡翠の前でだけは何故か意地を張らずにいられる。だから、こうしている今も翡翠には多分、燈の気持ちなんて全部分かっているのだ。
燈が、どうしてホワイトデーにお菓子を作ろうとしているのかも、それが誰のためなのかも。分かっていて、何も言わない。本当は作りたくもない日に作りたくもないお菓子作りを手伝ってくれる。だから、燈はいつだって、翡翠には逆らえない。押さえつけられるからではなくて、翡翠に何かを返したいといつだって思っていた。
「じゃあ、生徒もそろったことだし、作ろうか」
燈が買ってきた材料を確認して、翡翠が言う。
「え? 教えてほしいって言ってたのって……紅二?」
燈の質問に翡翠はにっこりと微笑んだ。今頃気づいたの? という顔だ。
分かっていて、こういうことをするから翡翠は性質が悪い。
「紅二たくさんもらってたもんね」
そう言って、口をパクパクさせている燈を他所に、翡翠はさっさと説明を始めてしまった。
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