前世の日常

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前世の日常

 先輩は言葉に詰まっていた。   「は……?」    どうしてこんなことになってしまったのか。    ◇◇◇   「今日は石膏像スケッチしよう。悠里ちゃん、運ぶから手伝ってくれる?」   「了解です」    平均よりちょっとだけ偏差値の高い自称進学校にある絵画部が、私たちの放課後の居場所だった。日中は美術室として美術の授業に使われてるけど、放課後や土日は絵画部に開放される。大きく取られた窓からは燦々と西日が差し込み、コンクリートの校舎を暖かく包む。  毎日過ごせば、水彩絵の具や油絵の道具、色々な画材の匂いが染み付いた机や椅子に、ある種の愛着を覚えてしまう。  私は大きく息を吸って、美術室を堪能する。   「落ち着くねー」 「先輩も思います?」 「僕は絵が好きだからね」  鉛筆を持った手を動かしながら先輩は淡々と語った。柔らかな太陽が注ぐ美術室には、ゆったりとした時間が流れている。放課後の部室で好きなことに真剣に向き合う高校生、という青春感が嬉しくて、私は静かに頷いた。 「……終わり」  先輩はあっという間に一作描きあげる。 「もう!?」 「暇だから悠里ちゃんを描いていい?」 「やですよ、自分を描けばいいじゃないですか」 「って、もう描いてるし……」  覗いてみれば、東宮先輩のスケッチブックには繊細なタッチの「私」が鎮座していた。特に「毛」の表現が上手いと思う。髪の毛やまつ毛の一本一本をしなやかに描く先輩の絵は、梳きたくなるくらい麗しい。そっとすくえば指からなめらかに落ちていきそうだ。    自分の髪の毛の先端をつまみ、まじまじと観察してみる。焦げ茶色の髪はクセは弱いが太さがあり、ヘアスタイルが維持できない。ヘアアイロンの効果は一時間、デジタルパーマの効果は一週間。正直言って融通が利かない。   にも関わらず、先輩が描けばモデルみたいに美しくなるから不思議だ。  先輩の目にはどんなふうに見えているのだろう。  自分が描いてもこうはならない。対象を描いていると分かるものの、わずかなデッサンや色合いの差でつまらなく見えてしまうのだ。 「きれいだなぁ……」  私は感嘆の息を吐いた。  美しい人が描く極上の絵画を、毎日そばで見られるなんて、なんて贅沢なんだろう。  グラウンドで飛び交う掛け声や歓声が、BGM代わりに教室に流れる。美術室の壁には、近年の入賞作品が展示されている。角椅子に腰掛けながら、私はゆっくりと視線を動かす。  雪の中、神社を闊歩する野良猫の絵。  手術室の前で祈りを捧げる老婆の絵。  春を喜ぶ蝶たちの舞い。  どれも目の前の東宮律が描いたものである。 「すごいですよね。日展にもありそうだし、ミュージックビデオでも使われてそうです。絵柄何個持ってるんですか」 「練習すれば誰でも描けるよ」 「描けてたら苦労しません」  彼は天才だ。  絵画部、といえば聞こえは良いけれど、顧問の先生にほぼ放置されているしがない文化部だ。デッサンも着色技術も生徒たちでなんとかするしかなくて、ほとんどの生徒は得られるものがなく幽霊部員と化した。  恵まれているとは言いづらい環境でで先輩はひとりで黙々と作業し続け、この教室からいくつもの作品を生み出し続け、たくさんのタイトルを獲得している。   「先輩は大学決まってるんですか?」 「……まだ」 「先輩だったら余裕で美大行けそうですね。どこ狙ってるんですか? 先輩ならどこでも合格しそうです」 「別に。絵が描ければどこでもいい」  スケッチブックに描かれた「私」の周囲には、窓と奥に広がる木々や空が付け加えられている。六月の青々と茂った樹木は、みずみずしくてはつらつとしている。薫風が感じられる絵の中の自分は、清楚で可愛い女の子に見える。 「先輩らしいですね」  技術面も優れているが、先輩の絵は見た人の心を惹きつけるのだ。 「大学生になっても描き続けてくださいね。私先輩の絵が大好きなんですから」 「……え?」  いつのまにか鉛筆から木炭に持ち替えていた先輩の指がピタリと止まる。  何か変なことを言っただろうか。 「そんな、別れるような言い方しないでよ」 「別れるでしょうよ。進学にしろ就職にしろ、先輩は卒業するんですから。絵画部にはもう来ません」 「がーん」  効果音みたいに先輩は洩らした。 「いや、でも来てもいいよね? 僕、ここが一番集中できるんだ。美術室で、悠里ちゃんと描くのが一番いい絵ができるんだ」  寂しがり屋なんだろうか。天才は場所や時間を選ばずに描けると思っていた。 「悪いとかはないと思いますけど」 「うん」 「でも」  先輩は潤んだ瞳でこっちを見つめている。  子犬みたいな眼差しで見てくるのはやめて欲しい。イケメンの上目遣いには耐性がない。 「四月になれば新入生が入学してきます。正直、卒業した先輩にいつまでも居座られるのは迷惑かと」 「ががーん」  なんだか顔色が悪いような気がする。ただのヒラ部員の私と離れるのがそんなに寂しいのか。 「先輩くらいイケメンなら引く手あまたですよ。男も女も選び放題です」 「悠里ちゃんがいい……」 「気のせいですよ」 「留年しようかな」 「身近な女の子が私しかいなくて、基準がおかしくなってるだけです」  先輩なら先輩らしくリーダーシップを発揮して欲しいところだけど、口には出さない。先輩らしくない先輩も悪くないと思うから。 「あ、もう単位足りてるんだった。駄目じゃん。卒業確定じゃん僕。うわーん」 「喜ばしいですね」 「喜ばしくないっ」  先輩はスケッチブックをバンッと閉じて、私の方へ向き直った。 「思い出が足りない……」 「高校生なんてこんなものですよ」  二年間、校内の様々な場所でスケッチした。派手さはないが思い出として悪くもないと思うのだ。四季折々、描く絵は違っていたし、会話の内容も異なっている。夏には蝉の声を聞きながら、冬には寒い寒いと言いながら屋上を使わせてもらったりした。屋上から眺める冬の街並みもなかなか良いものだった。雪は山々も屋根も白く染め、いつもよりも幻想的な世界を見せてくれた。 「思い出が特に無いって、悠里ちゃんはそれでいいの!?」 「別にいいですけど」 「……」 「お金ないし、無理に行くこともないと思いますけどね」 「……」  私はともかく、先輩は在学中に数々の賞をいただいている。受賞経験は思い出のうちに入らないのだろうか。  何故だかがっくりと肩を落としている先輩の後ろ姿は見るに耐えなくて、気の利いた台詞を言わねばと気がはやる。 「そ、そういえば、うちは文化部だから祝勝会みたいなこともしたことありませんでしたね。明日土曜日だし、卒業旅行ならぬ卒業スケッチ……動物園に行きませんか? 先輩も動物好きでしたよね」 「えっ!? 動物園!?」 「動物園です。動物園なら入園料安いし、高校からあまり遠くないし。先輩が描いた希少な動物たちを見てみたいです!」  嘘ではない。先輩の絵が見れなくなるのはつまらないなと思っていたところだ。 「……そういうのありなんだ……」 「え?」  聞こえなくて顔を近づければ、先輩はそのまま頭を抱え込んで自分方へ引き寄せた。 「ひゃっ!?」 「ありがとう、悠里ちゃん。デートだね! 初デートだね!」  頭の少し高い位置から先輩の声が聞こえた。美少女顔負けの美形のくせに、声は歳相応に低いからドキッとする。 「デートじゃないです。取材です」 「受け取る側によってはデートですー。えへへ、楽しみだなぁ、何着て行こうかなぁ」  先輩はサラサラの長い髪を揺らしながらにこやかに微笑んだ。  もう二度と美術室に足を踏み入れることができないなんて、このときはまだ夢にも思っていなかったんだ。
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