転生後の日常 Ⅱ

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転生後の日常 Ⅱ

 先輩は言葉を失って、私の顔と手の甲を交互に見た。   「……僕が、墨を入れろと」   「先輩は天才です。こんなこと簡単です」 「……だとしても……」  たじろぐ先輩を前に、決心が揺らぐ。  私だってわざわざ健康な身体に傷をつけるなんてこと本当はやりたくない。突き出した手と反対の手で、シャツの裾をずっと握り込んでいる。  けれども、私たちが住民たちのサポートを受けて生きていくためにはこれしか方法がない。先輩やパンダと離れて生きていく自信が全く無いのだ。  ふと、高く積まれた干し草の下に、針金のようなものがあるのが目に入った。針金はぐるぐると規則的に曲線に曲げられており、形状には見覚えがあった。 「これは……」  藁を退かして取り出してみると、スケッチブックやシャープペンシル、鉛筆が出てきた。絵画部の活動のときにいつも使っていた相棒である。 「まさか一緒についてきたの……?」  パンダが私たちを見つけてくれたときに、ついでに運んでおいてくれたのだろう。  紙と鉛筆さえあればいつでも絵が描ける。  私は期待に胸が弾んだ。と同時に、呑気に絵を描ける状況ではないことを思い出した。  踏ん切りがつかない彼の前に、前世から一緒にやってきたシャープペンシルと、パンダが箸を真似て作ってくれていた竹の棒をかざした。 「選んで下さい。どちらがお好みですか」 「……っ」  シャープペンシルはそのまま肌に刺し、刺すと同時に肌に鉛を着色させる。竹の棒は食事に道具を使う私たちのために作ってくれたものらしいが、先端が箸以上に尖っており、これで肌を刺して塗料となる墨を入れればタトゥーとなる。  炭は木炭を燃やして作るので、衛生的に大丈夫なのか不明だが致し方ない。 「どちらも嫌だ。悠里ちゃんの真っ白な肌に傷をつけるなんて僕にはできない」 「じゃあ死にますか。言っておきますけどパンダは私が貰います」 「え?」  私はパンダに目配せした。一人で生きられないのは彼も同じなのだ。喋れるパンダという力強い味方は、私以上に失いたくはないだろう。 「お……おう? そうだな」  不意に話をふられたパンダは適当に相槌を売った。  これまでの言動から察するに、パンダの中身はオッサンだ。思考回路はすぐに下ネタに行き着くし、初々しさの欠片もない。ここで私という人間の女が抱きついたところで、興奮したりはしないはずだ。  パンダの背におぶさるように絡みつくとふわふわな体毛が肌を擦った。  気持ちがいい。どうだ、先輩。モノクロふわふわ生命体が欲しいだろう。羨ましいだろう。 「そんな……そんなことって……」  先輩は床に両手両膝をついて絶望している。 「パンダが欲しかったら、私の言うこと聞いてくださいね」 「違う、そうじゃない……。パンダくんが羨ましい。悠里ちゃんにハグしてもらえるなんて、前世でどんな徳を積んだんだよ」 「……ん?」  パンダに嫉妬しているように聞こえる。 「先輩、ハグしたいんですか?」 「したいんじゃない。してもらいたいんだよ」 「……」  人は異世界に産まれ落ちると甘えん坊にでもなるのか。さりげなく上目遣いで見つめる先輩の顔は、実に心臓に悪い。 「そんなに私のことが好きですか?」 「好き」  先輩はサラッと口にして、自身の手のひらを見つめた。 「何にも染まってない、真っ白な君を描きたかった……」 「私は変わりませんよ。転生したって身体に落書きしたって、中身は高校生のままです」 「僕が嫌なんだよ」 「私の身体なのに?」 「そうだね。馬鹿な話だけど」  先輩は自虐的に笑った。 「毎日君と二人きりで過ごすうち、いつのまにか自分のものだと勘違いしちゃったのかも。」  先輩は立ち上がって小屋の方へ歩いて行くと、小瓶を持って戻って来た。小瓶の中には、既に精製された墨が入っている。 「スケッチするために数日前に作ったんだ」 「準備がいいですね」 「ふふっ。描くことだけが僕の生きがいだから」  知ってる。つい右手を動かしちゃうんだよね。 「悠里ちゃん、僕の夢はね……」  いつのまにか暗さが増してきた。  焚き火に木をくべると、火の周囲だけが明るく橙色に照らされた。 「……いや、やっぱいいや」  先輩はシャツの袖を大きく捲りあげ、大きな切り株に左腕の肘から下を伸ばした。 「押えてて。絶対に離さないでね」  先程までとは打って変わって真剣な瞳に、思わず唾を飲み込む。 「パンダくん。大きさの指定はある?」 「なかったと思うぞ。みんなバラバラだった」 「良かった」  先輩はパンダの声を聞くと、竹棒を数本墨に付け、躊躇なく肌に鋭い竹の先端を突き刺した。 「……っ!」  見ていられなくて、私は顔を背けた。 「大丈夫だから。ちゃんと見てて」  低い声で窘められて恐る恐る手元を見ると、少量出血があるくらいで、血の海で大惨事にはなってはいなかった。私は胸を撫で下ろす。  木片や枝木がパチパチ燃える音に負け、手の甲に模様を施す音はほとんどしない。  でも、握っている手を通してチクチクする痛みが伝わってくるような気がした。  彫り作業は夜通し行われ、夜が明けると、私と先輩はこちらの世界の形式的には夫婦になった。  先輩は左手、私は右手のそれぞれ親指と人差指の間のふくらみに、一筆書きで描く星の形である五芒星のマークを入れた。 「僕たち、高校生なのに夫婦だって。あはははは、えっち〜」  二人分描き終えた先輩は、声を上げて笑っていた。  ◇◇◇  紋章の無いふしだらな関係には終止符が打たれ、早速私たちは街に買い出しに出ることにした。  パンダに途中まで誘導されながら山を下ると大きく開けた集落があり、さらに下ると市場がある町に出た。  香ばしい小麦の香りに誘われて足を進めてみれば、フランスパンのような細長いパンやベーグル、アップルパイやミートパイなど、見たことのあるパンがたくさん陳列されていた。家に焼き窯はあるが、小麦粉がなくて作ったことがなかった。 「美味しそう……」 「いらっしゃい、何本?」 「今これが焼き立てだぞ」  エプロンをしたふくよかな女性が店に立ち、旦那さんと思われる大柄な男性も稀に顔を出していた。  入れたばかりの紋章が、まだヒリヒリと痛む。先輩も同じだと意識すると気恥ずかしくて、手の甲を見ないように慌てて後ろに回したのだった。 「いやぁ、僕たちお金なくて……匂いだけで結構です」 「そんな細いナリしてー。端くれでいいなら持っていきなよ」  女将さんは奥でゴソゴソと何かを袋に詰め、ヒョイっと先輩に手渡した。  紙袋に入っていたのは大量のパンの耳だ。 「わぁ、いいんですか!? 助かります、ありがとうございます! ほら、悠里ちゃんこんなに!」  先輩は見てとばかりに後ろを振り返った。  待望のちゃんとした食べ物を前に、先輩は子どものように無邪気に目を細めた。 「せっかくだからジャム作る? 焼いて砂糖絡めてもいいね。……あ、砂糖ないか。蜂蜜で代用して……」  私たちはしばしの間、グルメの話で盛り上がった。異世界に来て初めての、お腹が満たされる予感である。  こないだはジロジロと見られていたが、市場で私たちを不審がる人たちはいなかった。なるほどたしかに、夫婦である印は有効であった。  町を行き交う異性カップルはもちろん、同性カップルも歳を重ねた老夫婦も、お互いにお揃いの印を刻んでいた。 「イモとトマトと、初心者にも育てやすいハーブ、何点かください」 「はぁい。見ない顔だねぇ、新婚さんかね?」 「はい、最近引っ越してきましたので、以後お見知り置きを」  前世から持ち込んだもののひとつである髪留めを換金して、花や種を売る店で野菜の苗を購入した。  農業、ましてや家庭菜園すらやったことがないけれど、前世の記憶をフル活用する。香りの強いハーブは害虫避けとして、イモとトマトは放置していても育てやすいからだ。 「先輩、道具も要りますよね。あっちの店にも行きましょう」 「センパイ? 夫婦じゃないのかい?」 「あっ、いや……昔の癖が抜けなくて。り……律……じゃなくてリーツ……でどうですか」 「うん。そうだね、ユリィ(・・・)」  それっぽいカタカナ語にして、先輩は柔らかに笑みをたたえた。  呼び捨てとは言い難いけど、限りなく近い名前呼びにドキッとしてしまったのは内緒だ。  前世では絶対にあり得なかったであろう事態なのに、それを受け入れている自分がいる。不思議なものだと、五芒星の傷跡をぼんやり眺めた。  本格的に異世界生活が始まるんだ。  過去は過去と割り切って、気を新たに頑張らないとね。  私は腹をくくって、右手の拳を握りしめた。  ところが、購入した苗木は買ったときのまま育つことはなかった。青々としていた葉は養分を失い、干からび始めていたのである。 「不作……? 凶作?」 「分からない。でも、のんびり考えてる時間が僕たちにはない。他に食べていく手段を見つけなければ」
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