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転生後の日常Ⅲ
私たちは紙と鉛筆を持って路地に立った。
剣と魔法の世界に転生したけど特別な能力がない私たちは、自分ができることをやるしかないのだ。
自分たちができること、すなわち、絵を描くこと。
洋品店からは凛とした雰囲気のマダムが、お菓子屋さんからは子どもの手をひいた若奥様が出てくる。裏路地では整髪を終えた紳士が理髪店の店主に一礼している。
お客さんになってくれそうな人を見極めて確実に報酬を手に入れるのだ。
流行りのつばの大きい帽子をかぶった中年女性に、私たちは声をかける。
「こんにちは、お姉さん。少しお時間よろしいですか?」
「アタシのこと? やぁねぇ、お姉さんって歳でもないわよ」
口に手を当てて控えめに微笑む女性の胸元と指には、小粒だが美しい宝石が飾られている。
「実はねぇ、結婚した娘に料理のレパートリーがないから教えてくれってわざわざ呼び出されてね。いい歳だっていうのに、本当に世話が焼けるわよね。」
「それは楽しみですね。お嬢さんもお母様と会えるのを楽しみにしていることでしょう」
愚痴りながらも弾んだ声をしている彼女に、安心して言葉を続ける。
「今日という日は二度と来ない大切な時間です。記念に、絵を描かせていただけませんか」
「絵……ですか?」
女性の動きがピタッと止まり、思わず唾を飲み込んだ。初めてなんて余計なことは知られない方がいい。
「あまり馴染みではないですかね?」
「そうねぇ。肖像画なんかは貴族御用達だから。アタシたちには縁が薄いわね。購入したなんて話聞いたことないわ」
私たちは目を見合わせた。薄々気づいていたが、私たちが過去に生きてきた時代より文明が発達していないのは確かなようだ。
市場で売られている比較的廉価な商品にしてみても、紙は羊皮紙で高価で手に入りにくいし、油絵の画材も揃えるのが難しい。
「スケッチブックだけが頼りですね。大切に使わなきゃ」
「あぁ」
スケッチブックをリングから一枚破いて、折り筋を付けて丁寧に半分に切る。
「僕が半刻で描かせていただきます」
先輩は深々と彼は頭を下げた。どこで覚えてきたのか、胸に手を当てる仕草がなかなかに現地人っぽい。
長い前髪の隙間から、透明感のある黒い瞳が貴婦人を射抜く。
珍しい黒髪に気を取られ、先輩がこんなに美人だと思わなかったであろう。わずかに頬を染めたように見えた。
「そ、そうね。気分が良いから買ってみてもいいわね」
「ありがとうございます!」
先輩は営業スマイルを浮かべて微笑んだ。
生きていくために、絵を描き続けていくためなら何でもやってやる。
右手の傷跡をしっかりと目に焼き付け、拳を握った。
女性には簡易的な木製の椅子に腰掛けてもらい、先輩が向かい合うように座って彼女を描く。
ほとんど見かけることのない光景に、何事かとわらわらと人が集まってきた。
私なら緊張して絶対描けないところだが、天才・東宮律にはノーダメージだ。全く臆することなくサラサラと手を動かす。
短い線を幾つも重ね合わせて、画用紙の中に女性を写し取る。ウエストやフェイスラインは心持ち引き締め、首のしわやほうれい線は省略する。
「期待しているのは、美しい自分だ。似せるのも大事だがが、過度な強調はしない」
以前先輩は頼まれて教頭の似顔絵を描いたときにそんなことを言っていた。教頭は五十代くらいの女性で、ちょうど婦人と同世代だ。当時も確か、独身だから所帯染みてなくて素敵ですね、なんて声をかけていた。
「ふふっ。天然タラシも困りものね」
「何笑ってるの?」
「ちょっとね。思い出しちゃって」
先輩はいつだって褒めるのが上手い。
私は素早く動く手先を追い続けた。
一通りデッサンが終わり、最後に紅色の染料を頬や唇に落とすと、わぁっと歓声が沸いた。
血色の良い朗らかな女性が画用紙の中に現れた。
「まぁ、これアタシ!? こんなに綺麗に描いてもらっちゃっていいのかしら」
「お客様のお人柄が良いからです。つい絵柄に現れてしまいました」
先輩が王子様スマイルを投げかけると、どこかで「キャー!」という黄色い声が聞こえた。
「上手いからおまけしちゃうわ」
貴婦人は手提げかばんから革の小袋を取り出して、銀貨をジャラっと先輩に手渡した。
どのくらいの価値があるかは分からなかったが、隅でぬいぐるみのふりをしているパンダが小声で呟いた。
「ドレスが一着買える値打ちだぜ」
「ひっ!?」
知識の少ない私でも分かる。数万から数十万、物によっては数百万もあり得るんじゃないか。
「こんなに……!?」
「いいのよ。絵を描いてもらうなんて、一生に一度だもの」
彼女は私たちと握手を交わし、足取り軽く去っていった。
「貴族じゃないけど、とても裕福な人だったのかな」
「ありがたいね。僕には見合わない金額的だけど、ようやく普通の食事が摂れるんじゃない?」
「そうですね! 先輩何食べます? 私果物が食べたいです」
「僕は君を食べられればいいかな」
「食べ物じゃないです」
パンと卵を五個、それから木苺を買って家に着いたときにはすっかり日が落ちていたが、たっぷりの水を沸かして卵を投入した。
「わぁー! ゆでたまごだね!」
先輩は調理場に立つ私の後ろから、グツグツ跳ねる鍋の中を覗き込んだ。
翌日から同じ場所に布切れを広げて看板を置くと、遠巻きに見ていた人たちがやってきてくれた。
「うちの娘を描いてほしいの」
「動物でもいいかしら? 飼い犬のシロちゃんよ」
「彼がプロポーズしてくれた、広場の噴水を描いて欲しいわ」
「はっ、はい! 喜んで!!」
お客様のオーダーは多種多様だった。
先輩が人物や動物、私が風景や建物を担当した。生き物は苦手だが、静物は幾らかマシだからだ。
人によっていただける金額はバラバラだったが、だんだん増えていく懐に少しずつ余裕を取り戻りしていった。
「先輩……はい、これ」
人が捌いた時間に、露天でバケットを買ってきた。焼き立てのいい香りが鼻をくすぐる。
「これは?」
「はんぶんこして食べましょう」
長いバケットを力を入れて二等分する。
バジルソースやベーコンやチーズも何も無いシンプルなパンは、前世だったら味が薄くて食べられなかったかも知れない。
だけど、今は尊くて貴重なものだ。
両手で握って、じっと見つめる。
「もったいなくて食べれないですね」
「僕は食べるよ。いただきまーす!」
先輩はもしゃもしゃと固いパンにむさぼり食っていた。
「あ、私も」
「んっ、うまー!」
口の中に小麦の味がじわっと広がる。一口目は固いが、噛めば噛むほど柔らかく口腔に浸透する。
先輩はあっという間にペロリと平らげ、温めた山羊の乳で喉を潤した。
「食べるの早いですね」
「そりゃあまぁ、食べ盛りの十代男性だから?」
いつも集まるのは放課後だから、先輩が食べているところを見たことがなかったけど結構可愛い。
ボロい家に、質素な食事。親も友達もいなくなってしまったけど、不思議と心細くはない。
きっと先輩のおかげだね。
小屋の窓の向こうから月の輝きが漏れ、右手を光にかざしてみせた。
「痛かったですね、これ。女の子の身体に傷をつけるなんてイケメンでも許さん」
「悠里ちゃんがやれって言ったんじゃん〜」
「冗談ですよ」
ほんのり明るく照らされた室内で、生温い隙間風が肌を伝う。
「痛みを伴ったぶん、私先輩のこと死ぬまで忘れられないかも。不思議ですね、ちょっと前までただの先輩後輩だったのに。何やってるんでしょうね」
「嫌?」
「嫌じゃないですけど……」
前世で告白されたことも付き合ったこともない私は、こんなこともちろん初めてである。
照れくさいような恥ずかしいような気持ちで、心の奥がムズムズする。
「良かった。僕とお揃いなのが気持ち悪いなんて言われたらさすがにショックだし」
先輩は胸を撫で下ろした。
気持ち悪いなんて思ったことなんかないのに。
「大丈夫ですよ。本当に嫌っていたらもっと露骨に嫌な顔しますし。こうやって」
私は眉間に皺を寄せいかにも不機嫌そうな顔を作ったが、すぐにハッとして取り繕った。
「ご、ごめん、見苦しいものをお見せして」
「いいよ」
しかし、予想に反し不意に頭を捕まれたたかと思うと、先輩の端正な顔が間近に迫っていた。
「色んな君を知りたい。逆にご褒美だよ」
彼は鼻の頭にそっと唇を付けると、はにかんで口角を上げた。
「末永くよろしくね、僕の奥さん」
「〜〜!?」
心臓が波打つのを悟られないように自分自身に言い聞かせた。
「形式上! 形式上ですからね!」
赤くなっていたら、どうしよう。
◇◇◇
庶民向けの肖像画や水彩画の販売は必ず上手くいくと私は確信していた。競争相手がいないので価格を下げる必要がなく、今後同じことを始める者が現れてもおそらく先輩の腕に敵う者はいないからだ。
たかをくくっていた私だが、余裕のある生活は長くは続かなかったのだ。
ある昼過ぎ、パンダが数枚の紙切れを口に咥えて持って来た。
「パンダくんはヤギさんじゃないから紙は食べられないよ」
「馬鹿にするすんじゃねぇわ」
口に挟んでいた紙は、口を開くとともにヒラヒラと床へ落ちた。
「なにこれ?」
「サーカスにでも招集されちゃった?」
覗き込んだ私たちの時が止まる。
『チープ過ぎ。こんなジャンク品、わたくしには似合わないわ。処分して』
先輩の描いた絵はビリビリに破られていた。
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