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外科医、乾
1
腹膜播種の症例は、執刀医が家族にICを行い、外科的な治療はしない方向で舵を取ることになった。よって術野は速やかに閉創され、執刀医は助手にその仕事を任せ、手術室を出て行った。もしかしたら意気消沈しているのかもしれない。それもそのはず、自分が手術で治そうとしていた患者が、回復したら腹膜播種であるとは……自分だったら相当なダメージである。
術後のレントゲン写真を待つ間、もう一度天堂翼、その人を盗み見してみる。
麻酔医、いや、医者でこんなに整った顔の人間を見たことがない、何なら今までの人生でここまでの人物がいただろうか。
「レントゲン確認お願いします、乾センセ」
看護師に声をかけられてPCの前に行く。隣には天堂。何故だろう、少し、いやかなり……緊張、する。
「麻酔科は大丈夫です……乾先生は」
はっ、と気がつくと、その端正な顔立ちが間近に迫っていた。
「あ、あああ……大丈夫、です」
術野にガーゼなどの異物がないこと確認し、麻酔を醒ましていく。麻酔拮抗薬が注入され、徐々に患者は意識を取り戻していく。自発呼吸を確認し、バイタル*3が安定していることを観察し……麻酔科の頭の中を覗いて見たい気持ちなになるのはどうしてだろう。我々外科医とは、全く考えが違う。同じ医者なのに。どうしてだろう。
「○○さん、わかりますか、手術は終わりです」
手術室Bに天堂の声が響く。優しい声だった。
抜管します、という天堂の声で、看護師が準備をする。麻酔に使われている気管挿管チューブの、カフを抜こうとする看護師、患者が暴れたときのため待機する看護師。プロフェッショナルな現場である。
無事、患者が暴れることなく抜管できると、患者はすぐに今何時ですか、と聞いてきた。かけより、今十時半ですよ、と答える。
「手術は、どうでしたか、悪いもの、取れましたか」
「……あの、」
言葉に詰まりながら困惑すると、
「手術は終わりました。詳しいことは執刀医の松本先生からお話がありますから、今は休んでください」
天堂が流暢に話す。慌てた自分が恨めしい。しかも、この麻酔科医、無口だと思ったらすごく喋れるようだ。
「ご丁寧にありがとうございます」
「……いいえ」
嫌みに聞こえてしまったかもしれない、そのくらい今の言い方は尖っていた。自分でもそう思う。腹膜播種に当たったのも初めてだが、やはり医師の予想が外れてしまったときの衝撃は大きい。これから、あの患者は家族と泣くのだろうか。真実を隠していた過去の医師達の気持ちも、少し分かる気がした。
「乾先生、移動」
冷たく声をかけられて、慌てて手術台からベッドへの患者移動を手伝う。患者の移動が終わると、天堂が呟いた。
「外科の先生達、患者の移動までしっかり見てください。自分たちの患者なのですから」
麻酔科医、は他科の依頼で生きている。依頼された、という立場である。しかし、自分たちはそうではない。あくまでも自分たち外科医を頼って来た患者を、外来から外科医が診ているのだ。
「いつもいつも、次の手術だからといって麻酔抜管前に出て行くからですからね」
これは、自分たち外科医に喧嘩を売っている……のだろうか。
「すみません」
とりあえず謝っておく。冷淡に言っているが、その実かなりの怒りを買っているのかもしれない。表情がマスクで分からないから尚のこと、天堂が怒っているように思える。
「乾センセ、気を落とさず。多分松本先生のことを暗に言ってるんですよ」
看護師の平沢が声をかけてくる、うん、と答えて患者を見ていると、常に患者に目線がある天堂に気づく。医者としては完璧、非の打ち所がない、という言葉がしっくりくる。
「平沢、今晩……空いている」
「ええーどうしよっかなあ」
手術室の端でこそこそと話す。視線を感じて、じゃあラインする、と声をかける。天堂に知られたかもしれないが、それでもいい。
あの、冷静で完璧な天堂を壊してやりたい……という邪な気持ちが、自分の中で生まれているきが、した。
*3
バイタル・サインの略。バイタルは英語表記では「vital」 と表す。バイタルの意味は、「生命を維持するのに必要不可欠なこと」。基本的には、脈拍・呼吸・血圧・体温。それに、麻酔の場合は酸素飽和度も重要になってくる。
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