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手術室内に行き、今日の麻酔の予定を見る。
「おお、おはよう、天堂君」
「おはようございます」
「今日は昨日言ったとおり、外科B枠は君に任せた」
「……はい」
彼の枠はAだ。麻酔をかけるのは別の医師だった。
なんとなく残念な気がして、そのまま仕事に就く。最初の患者は、鼠径ヘルニアの初老の男性。ここは静脈麻酔に簡易的な呼吸補助で麻酔をかけるか。
手術室Bに行き、静脈麻酔のプロポフォール*5を取り出す。アンプルでいいだろう。シリンジに白い液体をつめていく。冷所保存のプロポフォールは、吸うときに常温になるためアンプルやバイアルに水滴が付いていく。早く処理することがいい。
呼吸補助の用具にゼリーを付ける。すると看護師が話している声が聞こえた。
「えっ、また行ったの……」
「いや、飲んだだけだよー。いつもの」
「でも乾先生、あんたのこと気に入ってるよねえー切れないじゃん」
「どうかな、まあ……お互い軽いから」
「ふーん、利害が一致、ってやつ?深入りしないように」
「楽しければ、いいの」
看護師の平沢だ。そうか、彼女は乾と付き合っている……のか?それとも遊び……いずれにせよ、自分が気にすることではないが、余計に不快だ。奴がいないのに関係者がいるだけで空気が汚れる気がする。
「さ、患者さん迎えにいきましょ」
看護師二人が去って行く。そのまま、患者を待っていると看護師がかけたCD音源が聞こえてきた。クイーンの曲だった。懐かしい。初期のアルバムだ。クラシカルで優雅で……そして、感傷的だ。ボヘミアンラプソディを初めて訊いた時の衝撃は忘れない。自分と重なる境遇、女性を愛せない身体が恨めしいのも、この曲が全て代弁しているようだった。母親への罪を感じていた思春期に、曲を重ねたのだ。
「よろしくお願いします」
緊張している患者に挨拶をする。患者ははい、と大きな声で答えた。
「大丈夫ですからね、すぐ眠っちゃいますから」
「安心です、麻酔がとても上手いとお聞きしまして」
「はあ、誰からですか」
「外科の先生でね……誰だったかな、あの、背が高くて茶髪の」
乾に間違いなかった。奴の顔がまた浮かんでしまい眉間に皺を寄せてしまう。
「ああー、ま、良かったですね、上手い先生ですよー」
平沢がフォローする。入室から一分で瞬く間にモニター類が装着されていくのは爽快だ。
「眠くなりますよ」
「はい。お願いします」
患者は眠りの間、何を見ているのだろう。自分も、こうして永遠の眠りにつく日があるのだろうが、想像できない。きっと、解放されて楽なのだろう……。
患者が眠ると、手術室の端で見守っていた外科医達が一気に消毒をする。それから、執刀医は手を洗い*6に部屋外へでるのだ。その中に乾は、いなかった。
彼の何を知っているわけではないが、もうあまり関わり合いになりたくない。つい、昨日は声をかけてしまったが、もうこれ以上は近づきたくない。自分の何か、変わりそうで怖い。あまりにもかけ離れた人物だから、そう思うのかもしれないが。
*4マンマとは、乳癌または乳腺外科のことである。Mammary Cancerが由来。
*5プロポフォール(英語: Propofol)は、全身麻酔や鎮静に用いられる化合物である。最も作用時間が短く調節性に優れる静脈麻酔薬の一つであり、プロポフォールの登場後、全静脈麻酔や標的制御注入(TCI)など、麻酔科学上の多くの革新がもたらされた。商品名ディプリバン(Diprivan)でアストラゼネカから発売され、後発医薬品も出ている。
医薬品医療機器等法における劇薬、習慣性医薬品、処方箋医薬品である。
2009年、マイケル・ジャクソンの死につながった原因薬剤のひとつ。日本では2014年の東京女子医大事件にて子供が死亡した原因薬剤となった(Wikipediaより引用)
*6手術時の手洗いとは、器械出し看護師や執刀医など清潔操作を行う人がガウンを着る前に行う、手指消毒のこと。日常の手洗いとは異なり、上腕まで手を洗う。
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