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ヘルニアの手術は三十分ほどで終り、また次の手術の支度をして休憩に入る。昼を食べてすぐにまた麻酔をかける。今度は胃切だ。
「ちょっと、いいかな」
麻酔をかけていると、医長が部屋にやってきた。
「マンマの部屋の麻酔、変わって欲しいんだけど……行けるかな」
「何かあったんですか」
「まだ麻酔慣れてない子だからさ。体位が変わるし、患者が高血圧とかで、ちゃんとした麻酔管理して欲しいって」
「はあ」
「ま、期待されてるって事で一つ。ね」
普通は麻酔を変わることはあり得ないのだが、何か医長の勘があるのかもしれない。
自分の能力を期待されているなら応えたい。
そのまま手術室Bに行く。当然、彼が手術部屋にいるのだった。目線を合わせないようにしよう。
「ああ、天堂先生、よろしくお願いします」
乾の声に、よろしくお願いします、と目線をそらして答える。昨日、全ての患者の情報は把握しておいたはずだ……そうそう、本態性高血圧、ピルの既往……Dダイマー*7が高いな。あとアレルギー……鼻炎とキウイ。中々厄介だな。
「先生、よろしくお願いします」
患者の女性がベッドで言う。軽く挨拶をし、気管内挿管の準備をする。
プロポフォールを静脈に流しながら、患者の意識がなくなるのを待つ。そのまま、筋弛緩剤を注入した。呼吸補助をしながら、看護師の準備を眺める。介助の看護師はすかさず血圧を測る。創刊時は血圧が上がりやすいため、吸入麻酔で呼吸補助しながら血圧を下げるのが効果的だ。うん、十分に下がってきた。いいだろう。
「挿管」
声をかけると、看護師が喉頭鏡、チューブを渡してくる。それを使用しながら、患者の気管の入り口を探す。無事に挿管し、チューブをテープで固定する。
「お見事」
その揶揄うような言葉には反応しないでおいた。麻酔科医に対して挿管しただけでそれは、逆に失礼になるだろう。しかし、乾がそれを知るよしもないのだが。
外科医達は、全て手洗いに部屋から出ていく。患者の眼瞼にシールを貼ろうとすると、患者の頬が赤い事に気づいた。
「……?」
血圧は正常、しかし心拍数が徐々に上がっている。酸素飽和度……下がっている、挿管しているのに下がっている……。これはなんだ?
「外科の先生呼んで、早く」
看護師に声をかける。考えられることは……
思うより早く、身体が動く。
ソルコーテフ*8のバイアルを溶く。速効でシリンジに吸いつつ、一気に静脈内に流し込んだ。
「天堂先生!何があったんです」
乾の声がする。もう自分の感情に構っていられない。
「多分アナフィラキシー*9……だ、と思うんです。D高かったんで肺血栓も考えたけど……違う気が……プロポフォールの時は大丈夫でした。筋弛緩薬か……」
すると乾は無言で筋弛緩薬拮抗剤のアンプルを吸う。筋弛緩薬から離脱させるためだ。
「分かりました、やってみましょう」
乾が拮抗剤を注入する。徐々に、酸素飽和度が上がっていく。心拍数も戻り、自発呼吸が増えていく。
「手術は延期です、次、麻酔をかけることについて麻酔科で検討させてください」
「分かりました。ありがとうございました」
意識が戻ったら、手術が行われなかったことに患者は驚くだろう。しかし、安全に麻酔を、手術をするにはリスクが多いと危険も多い。万全を期したい。
「ICをしっかりお願いします」
負け惜しみのように呟く。その言葉を、乾が聞こえていたかは分からないが、きっと頷いてであろう、と思い患者の抜管に集中した。
*7Dダイマーとは、 血栓 (血液の塊)中のフィブリンという物質が溶解された際に生じる物質の一つです。 血液中に含まれるこの物質の量を調べることによって、体内で血栓 (血液の塊)が形成されている、または形成された可能性の有無を推し量ることができる。
*8急性循環不全(出血性ショック、外傷性ショック)及びショック様状態における救急
気管支喘息に対応する薬剤
*9アナフィラキシーショックとは、アレルギー反応によって全身に急激な症状が出てショック状態に陥る重症疾患。本件では、筋弛緩剤の投与によるアナフィラキシーショック。
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