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血の塊
1
アナフィラキシーの患者は麻酔から醒め、病室でICを行った。
家族とともに自分が手術を受けられなかった事を知ると、涙する場面もあった。
「先生、私、治るんですよね?治るって孫と約束したんです、だから」
「大丈夫、また万全の体制をもって、手術に当たりましょう」
その場はなんとかしのげたが、これからの手術、麻酔はどうするか、という問題がある。筋弛緩剤で、アナフィラキシーを起こさないものを選ばなければならず、またあの天堂翼に依頼しなければならないだろう。
『ICをしっかりお願いします』
あの時の天堂の瞳がちらつく。嫌味のように言われれば、腹も立つものだ。俺は主治医だ。
あいつはこっちをちら、とも見なかった。よほど嫌われているようだ。ただし、腕は確かであると思う。そもそも、麻酔は天堂ではなかったはずなのに。リスクの高い患者は、彼が見ることがおおいのだろう。頷ける。まさか、アナフィラキシーだとは思わなかった。あの男、あの一瞬で喘息のアタック*10だ、と予想を付けたのは医師として優秀だ、と言わざるを得ない。自分がもし、あの場で、あの行動ができたか?……いや、自分は外科医だ。麻酔科ではないのだ。天堂を見ていると、なれなかったであろうもう一人の自分を見ている気になる。勉強も人並みで、人脈でしか世渡りできない自分には、到底あの域には達せない。
とぼとぼと病棟から医局への廊下を歩きながら、少し考えてみる。
一体、プライベートはどんな男なのだろう。
女で失敗することもあるのだろうか……?
ふと、思い付くであろう全ての悪事に思いを馳せるが、とてもではないが実行できない。
ただ一つ、色事で惑わしてみたいという邪念がある。
女に、あの天堂がセックスに狂う、なんてことがもし、あったら……
天堂の目線を思い出すと背筋に震えが走る。冷たい眼。どんな眼で、女を抱くのだろうか。
「女と食事にでも誘ってみるか?……あの天堂が、尻尾を出したら笑えるな」
そんなことはないだろう、と思うのだが、やってみる価値はあるかもしれない。アイツの鼻っ柱を折ってやれば生意気な口をきかなくなるだろうし、もし女好きならば今後、外科の麻酔は安泰だろう。口利きをしてやれば良いのだ。
そう思ったが吉日とばかりに、看護師の平沢にメールする。
『ねえ、誰か軽そうな子いない?天堂を誘いたいんだけど』
『ふーん。何か企んでる?』
『いや、天堂と仲良くなっておけば、麻酔も安泰じゃん?』
『そういうこと?天堂先生のこと、気になっている新人の子はいるから誘ってみようか。ただ、あのお堅い先生が誘いに乗るとは思えないけど』
『うーん……何かいい方法、ない?』
『そういえば今日、私遅番でその子と勤務で残るから、もしかしたら外科残るんじゃない?そのときに誘ってみる?今日天堂先生も残りだった気がする』
『そんな上手くいくかな』
『上手くいったら行きましょ』
そんなやりとりが行われ、平沢の頭の回転の良さに感謝していた。彼女は強かで、賢くて、狡くて。でも後腐れなく付き合えるから楽ではある。新人の子?ああ、そうかあの子か。手術着だからあまり顔の印象はないけど、やたら胸がでかかった気がするな。天堂がエロいなら、一発で落ちる、か……
しかし、アイツはどんなネタで日々……過ごしているのだろう。俺と同じような動画で抜く?いや、まさか。でも男だから処理はしているはずだ。あんなにクールに生きているのに、家で抜いてると思うとそれだけで背徳感がある。あ、想像するべきじゃない。医局なのに興奮してしまった……なんで、天堂で興奮しているのか分からない。いや、天堂で興奮しているわけじゃなくて……
頭がこんがらがってきた。
「おお、乾先生。お疲れ様。昨日大変だったみたいだね」
「あ、杉田先生、お疲れ様です」
恰幅のいい外科医、杉田医師だ。肺専門の外科医で、腕はピカイチだ。まだ、肺外の方は勉強しなければいけないのだが。
「すごく疲れている顔をしているよ」
「そうでしょうか」
「まあ、あの患者さんもまだ手術する気持ちだろうから、次はなんとかしてあげたいね。麻酔科の見解は?」
「そうですね、まだ、聞いていなくて」
「早急に確かめて、患者を安心させてあげるといい。きっと気にしているだろうから。次のオペはいつ?優先にくんであげたいね」
「分かりました
。早急に対応します」
ということは、また天堂にお伺いを立てなきゃいけないってこと。
気が重いが、仕方ない。麻酔を依頼しなければ、外科は手術ができない。そして、それは麻酔科も同じ。
意を決して、手術室の中にある麻酔科室へ急ぐ。
そこは小さくて、外科医室とは比べものにならないくらいひしめいている。
「あ、天堂先生。ちょうど良かったです天堂からお話が」
麻酔科医長の東先生が言う。
「……乾先生、昨日の患者のことですが」
「ああ、俺も今そのことでお願いに」
「お願いなんてされたくないです、これは仕事、ですから」
冷たい物言いにまた、腹の底が煮えたくるような感覚。この感じはなんだろう。
「そうなんです、早めに手術を組んであげたくて」
天堂の眼がつり上がる。しかし、マスクの上からでこの風貌だ。マスクをとったらさぞ、美しい顔なんだろう……
「手術はしばらく組めません。アナフィラキシーを起こして6週間程度は、擬陽性の可能性があるから薬剤の反応テストもできない。一回退院させるのかが賢明です」
「そ、そうなんですか、患者は泣いていて」
「もっと泣かす事になってもいいのですか」
きつく諭されて、ぐっと拳を握った。
「とにかく、一回退院させて、それから外来で薬剤のテストをしてください。反応のない筋弛緩剤を使用する。それでければ麻酔はかけられない」
「そう、ですか……」
明らかにトーンが下がっていく自分。そこに天堂は追い打ちをかける。
「これ。読んでください。自分の患者のことくらい勉強してくださいよ」
どさっと本を机に置く。麻酔とアナフィラキシー、アレルギー疾患、と書いた本が数冊束になっていた。
「わかりました。また、お願いします」
本を持ち、麻酔科の部屋を出る。
東先生の「言い過ぎだよ」という声が聞こえてきた。そう、言い過ぎなのかもしれない。でも、自分の勉強不足は本当だ。
自分の勉強不足を通り越して、患者の事を考えたってそれは、空回りでしかない。
真実を話してしっかり治療しろ。
そう天堂に言われた気がした。
10*アタックとは、発作のこと。ここでは、挿管刺激とアレルギー反応による喘息発作が起こったと思われる。
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