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プロローグ
ピッ……ピッ……ピッ……
静寂の中、モニターの心拍音が響く。
「ペアン、あとクーパー」
「こっちはケリー」
はい、と答える看護師の声。そしてそれを見つめる冷静な黒い瞳。患者の頭部側、据えられた麻酔器から、術野を覗くその端正な顔。マスクに隠れてはいるが、切れ長の美しい眼は男女隔てなく魅了する。
開腹手術において、麻酔管理、全身管理は最重要である。
それを完璧にこなし、この容姿。きっと今までひくて数多の女が彼に抱かれたい、と想ったのだろうと感じる。この冷徹な彼が、そうしてきたかは分からないが……。
「おい、もっと鉱持ちしっかりしろ。麻酔科に見とれてんじゃねえぞ?」
「はい、……」
先輩外科医である執刀医に窘められて、不快な気持ちのまま術野に眼を戻す。少しだけ、彼に見とれていた、のは本当だ。でも自分が執刀となると話は別だ。何度となく患者管理の悪さを咎められると、どす黒い感情が起こっても不思議はない。
彼を、困らせてみたい。
いつしか、そんな感情も自分の中に生まれているような気さえするのだ。
「はい、じゃあ腹腔内全部見ていきます。血圧、は、完璧ですね。天堂先生だものね」
執刀医にそう声をかけられて、天堂翼その人をちら、と見る。
眼が、合う。
ほんの一瞬、その一瞬だったけど、それでも目線で触れ合えたこと。
自分の中でふつふつと湧き上がる気持ちが抑えられない。
「ああ……」
執刀医が諦めのような声を出す。それもそのはず、腹腔内には多数の白い粒々が、巻きちらかされたかのように散在していた。
「腹膜播種」*1
呟くと、執刀医はため息をついて、言う。
「家族呼んで。ICするわ」*2
天堂は、追加の静脈麻酔であるプロポフォールのバイアルを、とりだしたばかりだがもう一度、箱にしまった。
「生食ガーゼ」
看護師に術野を保護するガーゼを依頼する。
手を降ろした執刀医のいない手術室Bは、モニター音だけが響いていた。
*1
人間の腹部には、「腹膜」という一層の細胞層で包まれた大きな内腔(「腹腔」といいます)があり、この中に胃、小腸、大腸、肝臓、胆嚢などの消化器官や卵管、子宮などの女性器が存在しています。これらの臓器にはがんが比較的多く見られますが、がんは臓器の内側にある粘膜から発生します。しかし、がんが成長して内側の粘膜から外側の表面(「漿膜」といいます)まで進出してくると、表面からはがれた癌細胞がフリースペースである腹腔の中に散らばって腹膜上に転移巣を作ってしまいます。この病態は、ちょうど「腹膜」という畑に「がん」の種を撒くような現象であることから、「腹膜播種」という言葉で表現されています。腹膜播種という言葉は一般にはあまりなじみのないものですが、胃癌や卵巣癌で亡くなられる方の半数近くが「腹膜播種」に伴う症状に苦しむとされ、決して珍しい病気ではありません。(日本腹膜播種学会より引用)
*2
インフォームド・コンセントの略。2005年から個人情報保護法が施行され,医療者側が持つ患者情報について,自己情報のコントロール権と自己決定権が確保されるに至り,診療録開示の法的根拠にもなった。
患者自身が自分の病態を正しく知るために医療者は説明責任があるという意味。転じて医療従事者の中では医療者が正しい医療知識をもって、患者やその家族に説明を行う事。
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