58人が本棚に入れています
本棚に追加
【3】
その頃、リサ・キャラハン伯爵令嬢は別荘のある湖畔で、画架画架を立て趣味の絵を描いていた。
綿雲の浮かぶ青空。穏やかで陽を受けて煌めく湖面に空の雲が映りこんでいた。
湖の向こう側は美しい緑の山々。
そんな中、山の方から急にぶ厚い雲が垂れこめてきて、辺りが暗くなり出した。
「天気の急変かしらね」
リサはあまり気にも留めずに、でも、雨に降られるのは勘弁とばかりに絵の道具を片づけ始めた。
そのとき、
「おまえかあっ!」
と空気を震わすような低い大声が聞こえたのだ。
リサが驚いて見回してみると、青い大鬼が立っている。
その爛々と光る目に睨まれてリサは恐怖を感じた。
「あの、私に何か御用でしょうか?」
とリサはおずおずと尋ねた。
鬼はふんと鼻で笑った。
「おまえの婚約者が自分の代わりにおまえを食べろと言うのでね」
リサは驚いた。そしていつも冷たい表情のブレントのことを思い浮かべた。
「あの人、ついに私を売ったの!?」
あまりのことにリサは一気に恐怖が吹き飛び、何やら強い怒りが湧いてきた。
大鬼はリサの様子が意外だったようだ。
「ついにとは何だい? おまえの婚約者は裏切りの常習犯かい?」
「まあそんなところかしら。あの人は身代わりを提案するにあたってどんな理由を?」
「うん? この国の根幹に関わる大事な使命があるとか何とか」
「この国の根幹!? 婚約者の女一人守らずに何がこの国の根幹よ、すごい大風呂敷ね」
リサは呆れてしまった。
大鬼はなんだか急にがっかりした顔をした。
「なんだ。あいつはそんなたいした男じゃなかったのか?」
「ただの嘘つき男よ。浮気も仮病も失敗の言い訳も……。それでも昔は彼を信じていたものだけど」
リサは遠い昔に思いを馳せた。
出会った頃のブレントは優しかった。
「はじめまして、リサ。僕の婚約者はあなたに決まったんだって。親の決めた婚約だけど、僕は君を必ず幸せにするよ。だって僕らの人生は僕らのものだもの。幸せになるのは僕ら自身さ」
「リサ、お誕生日おめでとう。君の好きそうな指輪を見つけたよ。君をいつも以上に輝かせると思うんだ!」
「リサ、僕が君に夢中すぎるってみんなが揶揄うんだ。最初っから飛ばし過ぎると長続きしないよって」
そんな彼の言葉はとても愛の溢れるものだったのに、しかし、いつからかブレントは冷たくなっていった。
「あの夜会で僕が誰と踊ったかって? 誰でもいいだろ。あんまりうるさく言うなよ。どうせ結婚するのは君なんだ」
「ああ、そういえば先日君の誕生日だったね。ちゃんとうちの執事が手配したろ? ああ、あの日は病気だったんだ。体調が悪かったんだよ」
「君の御父上がさ、僕の推薦した徴税官が横暴を働いてるって言うんだ。でもあいつは飲み友達で、根はそんな悪い奴じゃないんだよ。ちょっと初仕事で舞い上がっただけさ。御父上にお前からそう言っておいてくれよ。え、僕から? 嫌だよ、バツが悪いだろ」
私に飽きたのか心変わりか。もう今となっては、リサはブレントを信じられなくなっていた。
昔ブレントに心をときめかせていただけに、こうなってしまったのが悲しくて仕方がなかった。
なぜこうなってしまったのか、私の何が悪かったのかと自問する。
私が悪いならちゃんと改善する。昔の彼に戻ってくれるのなら……! でももう遅すぎるのか?
そして、ついに彼は私を鬼に売った。自分が助かるために婚約者の命を差し出したのだ。
……もうそれは、一線を越えた気がした。
そのとき鬼が呟いた。
「そういや、女がらみで人生一番驚いたことがあったと言っていたなあ」
女と聞いてリサは「あっ!」とピンときた。
リサの目には何やら先程とは違う光が宿っていた。
「大鬼さん。それはあの男の口八丁。そんなのに乗せられたなんて、あなた、ずいぶんと見くびられたと思わない?」
「俺が見くびられている?」
「そうよ。あの男は『国の根幹に関わる』とか大仰なことを言ってあなたの関心を買ったのよ。それが嘘だったら?」
リサの挑発に大鬼は目を剥いた。
「俺を軽く見るとどうなるか思い知らせてやる!」
「ねえ、あなたは私を食べる気でしょう? それは仕方がないかもしれないけど、私を食べる前にね、あの男に『どういうつもりか』と文句を言いに行ってもいいと思うのよね。行きましょうよ、私も文句を言いたいもの! 私を食べる前に、一つあいつの本性がどんなものか見せてあげるわ!」
最初のコメントを投稿しよう!