身勝手な婚約者が私を身代わりに差し出したので

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【1】  国境沿いの広大な山岳地帯は、あまり人が入らないためか樹々が好き勝手に伸びている。  その山道をただひたすらに歩いていたブレント・シュルツ伯爵令息だったが、樹木のまばらになった峠に差し掛かった頃、 「これはおいしそうだ」 と不意に頭上から声がしたので、ハッと顔を上げた。  見上げた先には一体の大鬼がいた。木と同じくらいの背丈だろうか。仁王立ちでブレントの前方を塞いでしまっている。  ブレントは急にひゅうっと背筋を冷や汗が流れるのを感じた。  鮮やかな青色の肌、ぼうぼうに伸びた茶褐色の髪、ぎょろぎょろの目、顔の下半分を占める口からは牙が覗いている。  通行人を殺してはぎ取ったのだろうか、ボロから高級な刺繡入りまで様々な種類の布を縫い合わせた腰布を(まと)っていた。そしてまた、人間から奪ったのだろう、宝飾品をじゃらじゃらと腕やら首やら足やらに数えきれないほど飾っていた。 「おいしそうとは。僕を食べる気かな」  ブレントは怖い気持ちを押し殺しながら、平静を装い聞いた。 「そうだね」  大鬼は楽しそうに笑った。 「にしても全然気づかなかったよ。よほど上手に近づいてきたと見えるね」 「まあね。俺は脅かすのも好きなんだ。おまえはあんまり驚いちゃあくれなかったがなあ」  ブレントは本当は驚いていたのを必死で隠しながら、 「君くらいじゃ驚かないね」 と空威張(からいば)りして見せた。  大鬼はムッとしたようだ。ぎょろぎょろの目をカッと見開いたのが分かった。 「俺くらいじゃ、だと?」  ブレントは大鬼が憤慨しているのが分かった。  しかし大鬼のその様子を見ていると、なんだかブレントは心に余裕が出てきて、恐ろしさはどこへやら、大鬼を揶揄(からか)ってやりたい気持ちになった。  それで、ブレントはもったいぶって大きく(うなず)きながら、腕を組んでみせた。 「ついこないだ、人生で一番驚いた事があったからね」  大鬼はその『人生で一番』という言葉にプライドを傷つけられたようだ。(かぶ)せるように「それは何だっ!」と叫んだ。 「女さ」  ブレントは自嘲(じちょう)気味に唇を歪めてため息をついた。  すると 大鬼が何かを勘違いして、 「まさかドーラ・ガバンか!? あの性悪女っ!」 と急に頭から湯気を出して怒り始めたので、ブレントは慌てて腕を振って否定した。 「いや、誰だよそれ、違うよ。僕を食べたいというのはよく分かったんだけど、僕はちょっと食べられたくないんだよね。行かなきゃいけない用事もあるしさ」 「そういうわけにはいかないな。こちらもみすみす獲物を逃すってこともないからね」 「そうだよね」  ブレントはため息をついた。それから少し言いにくそうに、大鬼をちらりと見ながら言った。 「ねえ。僕の身代わりを差し出すっていうのはどうだい?」  大鬼は驚いた。 「おまえ、なかなか物騒な取引を持ち掛けるもんだね。それとも何か俺を騙そうとしてないか」 「そんなに構えてくれなくて大丈夫だよ。ただ単純に、身代わりで済ませてくれないかとお願いしているんだ」 「そんなに簡単に言うから怪しいんじゃないか。普通に考えて、おまえのために命を差し出すほどの人間がいるか? 親ならまあ考えられないことはないが」 「いや、親じゃない。婚約者だ」  大鬼は目を()いた。 「婚約者だって!? おまえ、自分が助かるために婚約者を犠牲にしようって言うのか? とんでもない悪党だな!」 「悪党って、それを君が言うのかい。君が僕を食べるのをやめてくれたらいい話じゃないか。でも、そうもいかないんだろう? 僕はちょっとやらなくちゃいけないことがあるからさ。婚約者も分かってくれると思うんだ」  大鬼はじいっとブレントを見つめた。ブレントが腹の裏で何か(たくら)んでいるんじゃないかと思ったようだ。しかしブレントが顔色一つ変えずに開き直った真っすぐな目で大鬼を見返すものだから、大鬼も観念した。 「おまえがやらなくちゃいけないことってのは何だい?」 「それは君には関係ないだろう」 「まあ関係ないが……。そんなに大事な使命なのかい?」 「うーん、そうだね。一応この国の根幹にも関わる事、とだけ」 「ふむ。それは何か大きなことをしようとしているようだね。分かった。じゃあ、おまえの話に乗ってやろう。おまえは見逃してやる。その代わりおまえの婚約者を食べるぞ、それでいいんだな?」  大鬼は念を押した。 「ああ」 「おまえの婚約者の名前は?」 「リサ・キャラハン」 「ふうん、分かった。じゃあな」  大鬼の体は急にもくもくと立ち上る灰色の煙に巻かれ出した。 「さっさと消えろ」  ブレントは消えようとする大鬼に聞こえないように(つぶや)いた。 「厄介なものに出会ったな」  それから、婚約者のリサのことを思い浮かべた。 「身代わりになってもらうなんて申し訳ないね。だがとても賢い君なら理解できるだろう……」
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