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10
真上に登った陽が傾きかける時刻になっても、悠真は帰ってこなかった。今まで悠真と離れられずにいたものが、あんな透明のロープだったっていうこと、私は全く気付いていなかった。あんな風に、簡単に切ってしまえるものなんだっていう瞬間を目の当たりにしたショックもあって、私は戸惑いを隠せずにいた。
これからどうしよう。
悠真とはしばらく会わない方が…… というか会えないかもしれない。もともと、もう頼らないってこの前決めたはずだったのに。
そう、私はまだ自分のこと、何も思い出せていない。自分のことが何も分かっていない人間にとやかく言われたら、誰だって怒って当然だよね?
私がこの前学校で耳にした『わたし』は、みんなが勝手に言っている私なんだ。そんな人の意見?(それとも評価?)で自分自身を決めてかかってはダメだ。
私はわたし自身のこと、もっとよく思い出さなきゃ。
そう思って、ふわりと浮かびながら学校へ向かうのだけれど、やっぱり先日のみんなの声を思い出すと、胃が重くなってなかなか早く進めない。
胃が重いっていうのもヘンな話。霊体になってから、飲まず食わずで大丈夫なのに。死ぬ前のわたしも胃痛に悩んでいたのかな?
学校に行かなきゃって思うのだけど、私の決意は弱り切っていた。
まったく、こんな風にただ空をふわふわと浮かんでいたら、このまま浮遊霊にでもなってしまいそう。
と思った瞬間だった。
ゴォオオオオオオオオーーーーーーーッと前から大きな風がやってきて、思いっきり私を運んでいった。
うわああぁぁぁぁぁ。抵抗する余裕なんかまったくなくて、空中でくるくると転がりながらどこか遠くへと飛ばされていく。
『うわっ。』
風に放り投げだされるようにして、私は勢いよくお尻から先に着陸した。
ここ、何処?
本当、こんなのばっかりだ。いきなり強制的に場面を変えられて、自分の置かれている状況を把握するのにいつも時間がかかってしまう。
いい加減疲れたなぁ。私は大きくため息をつくしかない。
周りの景色を認識することにも時間がかかる。真っ白い暗闇の中から徐々に霧が去っていくようにして周りが見えてくるのだけれど、今置かれている場所は、思いのほか小さい部屋のようだった。
えっ? 洗面所? でも、うちの洗面所じゃないみたいだけど。
尻もちをついた格好のまま、私の意識はまだぼんやり状態だ。
と、ほんのり暖かい空気を感じる右方向の扉がガチャリと開いて誰かが出てきた。
えっ、えっ? お風呂? うわぁ、ちょっと、誰? 待って、待って。
女性だということは、気配ですぐに分かったのだけど。う~ん。私って、裸の付き合いとか苦手かも。
と、バスルームの扉から出てきたのは、シャワーを浴びたばかりの涼だった。助かったことに、身体にはバスタオルを巻いてくれている。と、何故かホッとしたのもわずかで、ショートの髪を簡単にタオルドライで済ませると、身体に巻いたタオルを外して濡れた身体を拭きだした。よく知っている同性の涼でも、こんなシーンをこっそり見るのはまるで覗きのようでためらわれた。
膝までのショートパンツにTシャツといった姿に着替えた涼は、颯爽と洗面所から出て行った。私の場合、ロングヘアということもあって、お風呂の後はこんな早急にとはいかない。それに涼ったら、ほとんど肌のケアとかもしないんだ。
リビングへと向かう涼を改めて見てみると、いつも見ている涼より少し幼い気がした。身長ももっと高くなかったかな? それに、いくらお風呂の後でも半そで短パンって寒くない?
短い濡れた髪をタオルで拭きながら、涼のもう片方の手がリビングのドアノブに伸びる瞬間だった。
「涼は帰ってるのか?」
「部活から帰るなりバスルームに直行よ。母親の顔も見ないで」
「ああ。バレーか」
「いつまでたっても女らしくならなくって」
リビングの中から聞こえる声は、涼のご両親のようだった。
涼、どうして中に入らないのだろう。
「勉強もちゃんとしているのか?」
「いいのよ。もう、あの子は」
ドアノブに向けた涼の手がそっと離れた。
「それより、愁はすごいのよ。Y塾の全国ランクが50もあがったんだから」
「ほう。それはすごいな」
「学校でも、もう次の生徒会長候補なのよ」
「愁は温厚で人当たりがいいからな」
「そうよ。涼とは大違い。どっちが女の子なんだか」
「はは。まったくだな」
涼は足音を立てずに家の階段を登って行った。2階の部屋に入ると、力なく扉を閉めた。
弟さんとは3歳違いだったはず。ということは、今目の前にいる涼は中2の頃の涼っていうことみたいだ。
部屋に入った涼は、机に向かい椅子に腰を下ろすと、引き出しから紙切れのようなものを取り出してため息をついた。
手元にある置き鏡越しに、涼の顔がうかがえた。
『えっ? 涙?』
あの強気な涼が泣いている。想像したこともない涼の泣く姿を前にして、私は動揺してしまった。
「伊崎さんみたいだったら……」
えっ? そう呟く涼の手の中には、やっぱり私の写真があった。
『私みたい?』
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