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今、私はお気に入りの雑貨屋さんの入ったデパートのビルの屋上の柵を乗り越えようとしている。 模擬試験の帰りだった。お気に入りの赤い毛糸のマフラーが、踊るように舞いながら落ちていくのをゆっくりと見つめていた。 はるか遠く下に見える地面のアスファルト、その上を歩く人も、エコ節電中のイルミネーションもすごく小さく見えた。まるで人形の世界の風景のようで、実際の距離よりも遠くに感じた。 冷たい突風が突き抜けていった時、両手で握りしめた柵が音を立ててかすかに揺れた。”『こわい』 足元は40~50センチほどの余裕はあると思う。でも少しでも気を抜いてバランスを崩したら簡単に目に見えるアスファルトよりもっと遠く暗い中へと吸い込まれてしまいそう。私の膝はガクガクと震えが止まらなくなっていた。 『どうしてこんなところから飛び降りるなんてことできたんだろう』 私はきつく目を閉じて、深く深呼吸を一度した。 気を引き締め、慎重に。 私は再び柵を登って、安全な場所へと降りて戻った。 身体は冷たく冷え切っていたけれど、あまりの恐怖と緊張から額は汗ばんでいた。 『この先どんなに辛いことがあっても、もうこんな事しない』  屋上の安定したスペースに戻ることができて安心したから? 私はそのまま眠ってしまったのだろうか… 震えるひざと荒く刻む呼吸が止まらずにいるのを意識の遠い所で感じる反面、次々と流れてくるビジョン。 深夜近く、コンビニから白い袋を片手に出てきた男性の姿。降り出した小雨に気づき空を見上げている。 繁華街の明かりがネオンから朝日に変わる頃、小さな雑居ビルから煙が出てきて、あっという間に大きな炎となって広がっていく。 『これはなんだろう。今現在起こっていること? 未来に起こること?』  うっすらと見えてくるビジョンの中で一つの顔が飛び込んできた。紘人君? 紘人君ははしゃぎながら悠真の腕を引っ張ってる。大きなツリーが飾られたリビングで、銀縁眼鏡をかけた涙目の中年男性に抱きつかれて、困りながらも照れている悠真の顔が見えた。新しいお父さんだよね? 人のよさそうな人じゃない。よかった。  でも私、次元の歪みからちゃんと戻ってこられたのかな? ううん。戻らなきゃ。戻ってみんなに言いたいこと、確かめたいことたくさんある。  小麦が肩をすくめながら両手をあわせている。そうよ、小麦には男子に売ってたもの全部白状させないと。そして、書道じゃなくて、美術部に入れってちゃんと言ってやるの。  次に涼。自宅の勉強机にも釘で刺した私の写真を貼って必死に勉強してる。私の何が気に入らないのか、嫌いなのにどうしてサポート役やってるのかはっきり聞き出さないと。  そして美樹は大きな自宅にたった一人、真っ暗な部屋で小さく肘を抱えて泣いてる。どうして私たちもっと色んなこと話してこなかったんだろう。ううん。話をしてなかった訳じゃない。ぶつかり合うのを避けて、当たり障りないことしか言ってこなかったんだ。  他のみんなはどうなんだろう。  中等部の時、よくいつものグループから仲間はずれにされてた斉木さん。その度泣きついてきては時間が経つとまた同じ仲間に戻っていってた。そうやってぶつかって離れたり仲直りを繰り返したりして行くのが本当の友達なのかな?  でも、書道部ですごく仲好かった岡野先輩と佐々本先輩、一度すごく揉めたことがあって、佐々本先輩は部を止めてしまったっけ。  私たち4人はどうだろう。なにもかもぶちまけても、その後もまた一緒にいられるかな。  お母さんがウッドデッキの観葉植物に水をやっている。リビングのソファで静かに刺繍をしている。そして……。  空の遠く高い所で、Yさんが地図を片手に笑顔で手を振っているのが見えた。うれしそうにふわふわ浮いている。地図? あの世の行き方が分かったのかな?  Yさんの姿を見送りながら、私の奇妙な次元の世界が静かに終わっていくのを感じていた。  と、最後にYさんのふくよかな暖かい手のぬくもりを感じると、ギュッと握りしめた私の掌の中に何かを渡して…… **************  家に帰ってきた。  リビングのソファでお母さんが刺繍をしている。時計を見ると、もうすぐ正午になろうとしていた。いつも、夕方に学校から帰ってきて見る風景だ。  キッチンのカレンダーが目に留まった。食品の宅配日以外のメモはなかった。  玄関の下駄箱の様子を思い出してみる。お母さんの部屋の衣装ダンスもの様子も。家全体の状態。いつから変わってない? 1年? 2年? もしかして、その間ずっとお母さんは。  お母さんのいるソファの横にそっと腰を下ろした。 「お母さん、私のこと分かる?」  肩に手をかけて言葉をかけるものの、お母さんはうつろな目のまま静かに口元だけ微笑んだままだった。はじめてお母さんの縫っている刺繍を見たけれど、覚えている限りでも半年前からまったく進んでいなかった。 『お父さんに連絡しなきゃ。でも、連絡先は? えっと、海外電話ってどうかけるんだっけ。親せきのおばさんにも。あのおばさんの苗字ってなんて言うんだっけ?』    こんな状態になって初めて、自分が父親に電話もかけられないほど役に立たないことに気がついた。 『まったくなんて情けないの? みんなどうしてこんな私なんかのこと、完ぺきだなんて……』  電話帳の場所すら見当もつかず、真っ白な頭のままただ立ちつくすしかないでいるところに電話のベルが鳴った。安堵のため息と一緒に出た大粒の涙を流しながら、電話の受話器へと手を伸ばした。 **************
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