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ここ数日間は、穏やかな日々を過ごしていた。心も身体も軽くなった気がして。って、霊体なのか生霊なのか、何なのか分からない状態の私が言うのも何なのだけど。
悠真は相変わらず平然とした面持ちで、坦々とした毎日を過ごしていた。
私としては、こんなにも平常心でいられる悠真の態度に、不可解さを感じていた。
あんなに取り乱して、泣きながら人に心の内をぶちまけることなんて、今までの自分には考えられないことだったんだけど……。
今日の悠真は、真面目に朝からずっと学校に来ていた。授業といっても、クラスの大半は居眠りしていたり、漫画を読んでいたり。とりわけ高いレベルの進学校というわけでもない、一般的な男子校っていうのはこういうものなのかなと思って私は見ていた。
そんな中、大抵の授業を、悠真は手にしたペンをもてあそびながら、窓の外をぼんやりと眺めていることが多かった。特に仲良くしている友達もいないのは、バイトが忙しく、出席日数も少ないせいもあるのだろう。私はそう勝手に推測している。
この日はめずらしく、途中で早退することもないらしい。最終授業の体育を迎えようとしていた。
ロッカー室に移動すると、私は窓の外へと逃げ出して、彼らの着替えが終わるのをため息交じりに待っていた。そういえば、悠真が体育の授業に参加するのを見たのは初めてのことだ。
……陸上?
校庭に出て軽くウォーミングアップが済むと、色々並べられた陸上競技の道具を前に、男子生徒たちは順番を待っているようだった。
『なにかな? 実技のテスト?』
いつもの授業態度からは想像もできないくらい、彼らの熱心な取り組みようを見ていると、やっぱり成績に大きく響く授業のようだった。
『だから、今日は悠真も参加したのかな?』
と思っているうちに、悠真の短距離走の順番になった。
スタートを示す合図の音が鳴って。
『えっ?』
他の誰よりも格別にいいタイムであることは、特別陸上に詳しくない私にもよくわかった。
短距離走だけじゃない。
ハードル走や、幅跳び、高跳び、一連の種目、どれをとっても、飛びぬけて目立った結果をどんどん出していく。
その姿は、いつもアパートに集まる霊体のみなさんと、のんびり和んでいる彼からはまったく想像ができなくて、思わず目を奪われてしまった。
『でも、毎日バイトであんなに疲れてるのに』
あまりにも彼の意外な一面を目の当たりにし、驚く胸の鼓動を抑えられない私は、周囲の不穏な意識に気づくことができないでいた。
彼から離れられた数日間から、今の私が彼から離れられる距離は2.5mから5~6mへと拡大していた。
その6m先で、彼の活躍に感動を抑えられないでいた私は、彼が制服に着替えて戻ってくるのを心躍らせながら待っていた。……はずだったのだけど、ロッカー室に入ったかと思った瞬間、無理やり引っ張られるようにして、どこかへと連れていかれた。
連れていかれた先の屋上では、3人のクラスメイトの男子が、壁に追いやった悠真を取り囲んでいた。
「おい、沢野、舐めてんのか?」
「おまえ、まだ全然走れんじゃねーか」
「もともと陸上部の推薦でここ入ったんだろ」
「さっさと辞めやがって」
「同学年の俺らはなぁ、今でもお前と比べられてんだぞ」
えっ? 何、これってリンチ? 悠真は彼らの顔も見ないでそっぽを向いている。
「顧問も、先輩も沢野、沢野って」
「おい、何か言ってみろよ」
「悪いな。オレ、苦学生なもんで、遊んでる暇ねーんだ」
「貴様、遊びだとっ!」
3人の怒りが一気にアップするのが分かった。そのうちの二人が悠真に跳びかかって、壁に押さえつけると、思いっきり顔面に向けてパンチをくらわせる。何度かパンチを食らううちに悠真の身はその場に崩れ、今度はお腹への蹴りへと攻撃が変わった。
私は必死で3人の動きを止めようとするのだけれど、彼らの腕すらつかむことができない。彼らにとって私は普通の霊体と同じなのか、身体をすり抜けてしまう。
助けを呼びに行ったところで、誰にも私の声が聞こえなければ、姿も見えないだろうし、彼から6m先にだって自由に行けないのだ。
『ヤメテ!』
私は必死でそう叫ぶしかなかった。
悔しい。いつも助けてくれる悠真が、目の前でこんな目に合ってるのに、何ひとつできないなんて。こう叫んだ声だって、誰にも届くことがないんだ。
『ヤメテ』
それでも、私は叫ばすにはいられなかった。大粒の涙を流しながら、祈るように。
その時、校舎へと続く屋上の固い扉が、突風にでも煽られるようにして、何度もバタン、バタンと大きな音を立てて開閉した。
屋内の階段の下から、ひとりの男性教師の声が響いてきた。
「おい、誰かいるのか?」
男性教師は階段を駆け上ると、屋上の扉から入ってきて、4人の生徒の姿を見とめた。
倒れた悠真に対し、無傷の3人を見れば、事態は一目瞭然だ。
その男性教師は生徒指導の教師と陸上部の顧問に連絡を取り、3人はそのまま連れていかれ、悠真は保健室へと運ばれた。
誰もいなくなった保健室のベッドで、数一〇分後、悠真はゆっくりと目を覚ました。
「悠真……。もう起きて大丈夫なの?」
「ああ。あいつらのパンチなんて大したことないし」
「少しぐらい、やり返したってよかったのに」
「ただでさえ、出席日数ギリギリなんだ。こっちに非はないってことになっただろ?」
あぁ、そういう考えがあったんだ。でも。
「悠真もわざわざ彼らのこと、怒らせるような言い方するからだよ?」
「えっ? オレ、変な言い方した?」
えっ? 分かってないの?
「それよりさ、こんなんじゃバイト行けないじゃん。えっと、携帯は」
こんな状態でもバイトの心配して。
「オレ、まだ体操着のままだ」
「制服と鞄なら、そこに持ってきてくれたよ」
「おお。早くバイト先に連絡しなきゃ」
ベッドから這い出ると、傷の分だけ重くなった身体を引きずるようにして、鞄の元へと向かい、携帯電話を探し当てた。
電話先の会社の人相手に話す姿を見るのも初めてだった。考えてみると、今までどのバイトも遅刻や休みの連絡をしたことって全くない。他の人に電話をかけることもないようだった。
電話の対応はすごく丁寧で、まるで新人の営業マンみたい。電話だから相手が目の前にいるわけではないのに、片手を頭において何度も頭を下げて謝っている。ケンカが原因のケガでバイトに行けないことを必死で誤魔化しながら。
『なんだろう。何か変』
何が引っかかっているのか、この時の私には理解できずにいた。
ただ、漠然とした不安の影が、心の中で膨れたり縮んだりしているのを感じているだけで。
ちょうど悠真が通話を終わらせた頃、保健室の扉がガラッと開いた。
「おい、沢野、今日はタクシーを呼んだから」
と言って、担任教師が肩を貸しながら、外で待つタクシーの元まで悠真を連れて行った。
家を出て自活していることは担任も了承している様子で、怪我が治るまでは単位のことは気にしなくていいから学校も休んで構わないとのことだった。
体操着のままアパートへ帰った悠真は、枕と掛布団だけ押入から引きずり出すと、またそのままなだれ込むようにして、深い眠りに入ってしまった。
ただ近くで見守っていただけの私も、なんだかとても疲れてしまっていた。とても長い一日だったような気がして。
窓の外はすっかり陽が落ちていた。いつも集まってくる霊体のみなさんの気配を感じる余裕もないまま、悠真と共に私の意識もだんだん遠くなっていった。
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