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第5章 再会
「……暑い」
こまちは洞穴の中で、忌々しげに呻いた。
今年の夏も、やはり暑い。こまちはいつものように洞穴を出た。昨年以来、夏の間はすっかり夜の散歩が習慣になっていた。
「ほんっとに暑い。去年食べたカキゴオリがあればいいのに……あれ、甘くて冷たくて美味しかったなあ……」
その時、こまちははっと足を止めた。遠くに火が見えたのだ。昨年のあの時と同じように木立の向こうに。
――あの人だ!
こまちは思わず走り出した。
炎はどんどん近づいてくる。こまちの胸は高鳴った。やがて炎の形がはっきりと見えてくる。見覚えのあるテントが目に入ってきた。間違いない。
「ねえ、あんまりじゃない!? あたし、冬の間ずっと待ってて……!」
大きな石の転がる川原を叫びながら駆け寄ったこまちは、思わず立ち竦んだ。
「――あれ、なんか急に寒くなってきた」
知らない女の声が流れてくる。
「ああ、夏でも山の夜は冷えるしね。特に川ぎわは」
応えたのは、聞き覚えのある声だった。
冬の間、何度も何度も頭の中で繰り返した懐かしい声。
「こんなに寒いなんてびっくり。冷たいものよりあったかいもの、飲みたくなるぐらい」
「はは、そうだよね。お湯沸かしてスープでも飲む?」
炎の熱が届かないところで立ち尽くすこまちに気づく様子もなく、男は小さなヤカンを取り出すと、ミネラルウォーターを注いで火にくべた。やがて湧いたお湯をカップに注ぐと、コーンスープの甘い匂いがふわりと漂う。
「わあ、美味しい。やっぱり私、あったかいものの方がいいな」
「――そう言えば、去年の今頃さ。ここでキャンプしてたら、雪女に会ったんだ」
急に男の口から自分のことが洩れてきて、こまちはぎくりとした。
「雪女!? やだ、そんな冗談……」
女が怯えたような声を上げると、男は大丈夫、というように笑った。
「いや、ほんとに。少なくとも自分ではそう名乗ってた。実際、熱いもの食べられないし、火の近くには寄れないし。おまけに俺の作ったかき氷を美味そうに食べてさ」
「うそ、この寒いのに」
「だろ? でも雪女にはそれでちょうどいいらしいよ。でも後から冷めたソーセージ食べて喜んでたんだ。こまちっていう名前でさ」
「やだ、遼ちゃんたら、別の女の子に優しくしてたんだ」
「いや、女の子ったって雪女だし。そもそもその頃、俺たち付き合うどころか、まだ知り合ってもいなかったじゃん。そこは勘弁してよ」
「まあ、それもそうか。私たちが初めて会ったのが去年の秋で……」
「付き合い始めたのがクリスマスだろ。だからそれから彼女には会ってないよ。ほんとは冬にまた会いに行くって約束してたんだけどさ」
こまちはそれで合点がいった。
だから来なかったんだ。だからもう私が見えないんだ。
だって今は、他に大事な人がいるから……!
だがそんなこまちの心の奥など知る由もなく、女が強張った声を上げた。
「やばいじゃん、それ。冬に雪女なんかに会ったら、ガチで凍死しちゃうって。行っちゃダメだよ、そんなの」
「いや、彼女はそういう感じじゃ……」
むっと頬を膨らませる女に、男が慌てて手を振って宥めた。
「いや、変な意味じゃなくて……あ、ね、ねえ、ソーセージ食べないか? 焚火で焼くソーセージ、すっげえ美味いんだ。俺、キャンプ来ると絶対食べるんだよ」
どうやら女は機嫌を直したようだ。男はほっとしてクーラーボックスからソーセージを二本取り出すと、串に刺して焚火にくべた。
――あたしだって……あたしだって、お腹空いてるのに。
こまちは冷えたこぶしを握りしめた。
――ずっとずっと待ってたのに。また一緒に食べられるからって、待ってたのに。
「ねえ、なんかほんとに寒いんだけど」
「そうだな。確かに急に冷えてきたな。だけど妙に……」
男が怪訝な表情であたりを見回す。
こまちははっと我に返った。知らず知らずのうちに二人に向けてかざしていた手を慌てて引っ込める。いつのまにか“力”を使おうとしていた。
だめだ、それはできない。この人にも、それからきっとこの人の大切な人にも。
「少し火を強くした方がいいんじゃない? まだ薪あるよね?」
「え? あ、うん。でも……いや、そうだな。そうするか」
その言葉が合図のように、こまちは静かに踵を返した。
女の楽しそうな声が後ろから追ってくる。
「ソーセージ、焦げちゃわないといいけど」
二人の笑い声を背に、こまちは来た道をゆっくりと辿って自分の住処へ帰っていった。
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