第1章 眠れない夜

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第1章 眠れない夜

「……暑い」 夜の闇がもったりと立ち込める中で、雪女がたまりかねたように呻いた。 住処の洞穴から這い出るようにして外の空気を吸い込むが、それもじっとりと湿りを帯びて喉の奥に絡みつく。 「何なの、この暑さ! いくら夏でもこんなに暑いなんてあり得ない」 雪と氷を愛する雪女にとって、夏は忌まわしい季節だ。陽射しは強いし、地は青々とした草に覆われ、うかうかすると自らの体が溶けてしまう。だから夏の間はひんやりした洞穴の奧で、さながらクマの冬眠の如くうつらうつらと眠るのが常だった。 だが雪女の住む山の奧でも、最近は日中どころか夜になっても蒸し暑さが垂れ込めて、こうして寝苦しさで目覚めることも珍しくないのだ。 「ああもう! どうせ寝られないなら散歩でもしようかな」 雪女は苛々と寝床から起き上がった。 長い髪をばさりとひと振りして、洞穴から外を覗く。どうやら今宵は闇夜のようだ。月明かりすら零れていない。 外もたいがい蒸し暑かったが、それでもわずかに風が吹き抜けるだけ洞穴の中よりはましだった。それに夜なら、少なくとも陽射しの心配はない。 雪女は気怠い足取りで、真っ暗な森の夜道を歩き始めた。灯りがないとて、雪女には何の不自由もない。だが春先からほとんど何も食べていない体では、どうにも力が入らなかった。 「やっぱ夏はしんどいなあ。冬なら雪があるから、とりあえずエネルギー補給できるんだけど……あとは人間の一人か二人でもいれば、その生気で……」 雪女はごくりと唾を飲み込んだ。 雪女の好物は生きた人間のエネルギーだ。昔話では、雪女に遭遇するとたいていは凍死するが、あれは生気を吸い取られて体の中のエネルギーが枯渇してしまうゆえだ。自分としては同じ生気を吸うにも、相手が昏倒してしまわないよう頂くことにしているのだが、なかなかその加減は難しい。 「あーあ、どっかに人間いないかなぁ。できれば若い男なら言うことないんだけど……」 闇夜の中に流れる川のせせらぎを聞きながら、ふらふらとそぞろ歩く雪女のまわりが、白く冷えたもやでうっすらと光る。 「あれ?」 雪女はふと足を止めた。遠くにぼんやりと灯りが見える。 あたりは真っ暗なのに、と雪女は目を凝らした。 ――あれは……炎? 川ぎわに並ぶ木立の合間から、ちろちろと揺れる炎が確かに見える。雪女にとって熱い炎は危険だ。だが久しぶりに外に出て好奇心が(まさ)ったのか、雪女はそろそろとそちらへ近づいていった。
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