23人が本棚に入れています
本棚に追加
「今から戻ってくるそうです」
伝えると、山崎は少し表情を和らげた。それでも怒りの顔から無表情に変わっただけであったが。
そのまま待つこと数分、エレベータが動き出す音がし、山崎と俺は視線を向ける。オンボロのエレベータはガタガタとうるさい音を立てながらゆっくり移動すると、一階のランプがついて扉が開いた。
中にいたのはあの青年のみで、中年男は見当たらない。
「アズマ様っ!よかった」
山崎が駆け寄ると、アズマと呼ばれた青年はうっとうしそうに歩みを早める。
「あの男はどこですか」
「非常階段から逃がしたよ」
「なぜそんなことを……お父様から釘を刺してこいと頼まれていたのですよ」
「知らない。そんなの」
「ははっ!逃げたんなら、俺来た意味なかったね。どうする?山ちゃん」
二人の会話を聞いていた紺スーツの男が軽薄そうに口をはさむ。
「あの男の後を追え」
「いいけど、たぶんすぐには見つからないよ?」
「いいから!」
「はいはい。それじゃあ、二人とも気をつけて帰れよ。坊ちゃん、遊びもほどほどに」
紺スーツの男がアズマの頭に手を置いた瞬間、アズマはその手を振り払った。長いまつ毛に縁取られた大きな両目が男を睨みつける。
ゾッとするほどの迫力だった。
アズマはエントランスから出ていく直前、なぜかこちらを振り返る。視線が絡み、思わず固まった。やがて、その名残惜しそうな瞳はゆっくりと外される。
なんだ?今の。
アズマと山崎はそのままホテルから出て行った。残った紺スーツの男はくるりとこちらに顔を向け、微笑んだ口もとに人差し指を立てた。意味を察し、俺は黙って頷いてみせる。男は安心したように、そのまま非常階段の方へと消えていった。
なんだったんだ……ほんと。
残されたのは、受付の台に並べられた名刺二枚と運転免許証。
ん?……運転免許証?
さあっと血の気が引いていく。慌ててカード類をまとめて掴み二人の後を追いにいく。が、時すでに遅く、もうどこにもアズマと山崎の姿はなかった。
「おう、さっきの客どうだった」
ふいに後ろから声をかけられて死ぬほどびっくりした俺は、とっさに手に持った名刺と免許証をポケットに突っ込んだ。
「佑都さん……びびった。急に現れないでくださいよ。あいつらなら帰ったんで問題ないです。警察も呼ばれてませんし」
「あっそ。面倒にならなくてよかった」
「どこがですか。俺は十分、嫌な思いしたんですけど」
佑都さんは笑いながらフロントがお前で良かったといい、そのまま清掃へと戻っていった。
なんだか濃い一日だった。
ふう、っと一息ついたところで、俺はポケットに突っ込んだ免許証を取り出す。どうする?さすがに取りに来るだろうか。
返し忘れたって言ったら、佑都さんにまた笑われるかな。それはそれで腹がたつ。後でこっそり忘れ物リストに書いて、金庫に入れておこう。
そんなことを考えていた俺は、この時は知る由もなかった。
自分のポケットに残ったままの名刺のせいで、自分の人生が、これからとんでもないところへ転がり落ちていくなんて。
最初のコメントを投稿しよう!